
新規事業という4文字を目にすると、大企業の製品開発やスタートアップの革新的なサービスを思い浮かべるかもしれない。しかし、新規事業はビジネスパーソンの専売特許ではない。 近年、これまでの枠組みを超え、新たな分野で活躍するアスリートが増えている。現役中から引退後を見据え、競技以外の活動に積極的に取り組む選手たち。 前NewsPicks編集長の泉秀一氏が、彼らの考え方や行動から、新規事業に取り組むビジネスパーソンに通じる多くの学びを導き出す。

泉秀一
ノンフィクションライター
1990年生まれ。経済誌「週刊ダイヤモンド」の記者を経て2017年からNewsPicks。副編集長、編集長を経て独立。ジャンルにかかわらず人物を中心に執筆。著書に『世襲と経営 サントリー・佐治信忠の信念』(文藝春秋)。
アスリートの頭の中は新規事業への学びだらけ
生きのびるためには、挑戦を続けるしかない──。2024年1月、一人の日本人アスリートがアメリカに渡った。プロソフトテニスプレーヤー・船水雄太氏、31歳。国内タイトルを総なめにし、世界選手権で金メダルを獲得した実績を持つ。
船水氏は国内のソフトテニス界では知らぬ人がいないほどの有名選手。しかし、渡米の目的はソフトテニスで世界を目指すことではない。

彼が挑戦するのは、ピックルボールと呼ばれる新しい競技だ。1960年代にアメリカで生まれたラケットスポーツで、テニス、バドミントン、卓球の要素を組み合わせたような特徴を持つ。
バドミントンコートと同じ広さのコートで大きめのうちわのようなサイズのラケット(パドル)を使い、プラスチック製で穴が開いた軽いボールを打ち合う。
試合はシングルスやダブルスで行われ、反射神経やスピードだけでなく、強いショットで相手を押し込んだり、逆にネット際を狙って柔らかいショットを差し込んだりと、戦略や技術も重要だ。
そうした駆け引きが魅力の一方、その手軽さと運動強度を調整しやすいことから、健康増進のためのスポーツとしても注目されている。穴が開いたボールはバドミントンのシャトルのように減速するため、テニスよりもラリーを続けやすい。老若男女問わず楽しめるのが特徴だ。
日本での知名度は低いが、今、アメリカで大注目。競技人口は約900万人。2023年3月時点で、直近1年間でプレーしたことがある人は4,830万人にのぼるというから、規模の大きさに驚かされる。
そうした競技者たちのトップに位置するのが、2021年に誕生したプロリーグ「メジャーリーグ・ピックルボール(MLP)」。野球でいえば、大谷翔平が所属するメジャーリーグベースボール(MLB)のような存在で、このトップ領域でプレーすることが、船水氏がピックルボールに挑戦する理由だ。
MLPは24のチームに分かれて、各チーム男女計4人のトップ選手が年間を通して勝敗を争うリーグ戦。賞金総額は500万ドル(約7億5,000万円)で、トップクラスになると一人で300万ドル(約4億5,000万円)を稼ぐ選手もいるというから、夢がある。各チームの出資者には、テニス選手の大坂なおみやバスケットボール選手のレブロン・ジェームズら各界のスター選手が名を連ねる。日本の経済界ではビジョナル創業者の南壮一郎氏も出資者の一人だ。
MLPが熱いのは、その賞金の大きさに加え、新競技ということもあって、他スポーツから参戦するアスリートが続出しているという点だ。老若男女がプレーできるという競技の特性上、ファン層も広い。ファンが集まれば賞金が上がり、また他競技から有力選手が集まるという好循環が生まれている。船水氏もその一人。ソフトテニスで培ったスキルを存分に生かすチャンスがある。
「賞金も魅力ですが、ソフトテニスのスキルを生かせるのも参入の決め手です。今まで培った技術を最大化して大きな舞台に挑める。簡単な道ではありませんが、日本人初のMLP選手になってみせます」(船水氏)
既存スキルを生かしながら、新たに出現した巨大マーケットをいち早く獲得しにいく──。その思考は、ビジネスにおける新規事業の考え方と共通する。自社のコア技術を冷静に分析し、既存市場だけにとらわれず、より収益性の高いマーケットに柔軟にピボットしていく。そうして収益を最大化するプロセスは、ビジネスでは定石となっている。
今スポーツ界では、船水氏のように既存のスキルや知名度という自分の資産を生かした新しい動きが増えている。船水氏の挑戦をはじめ、他アスリートの新しい活動を紹介しながら、個を武器にするアスリートにとっての新規事業を考察していきたい。
【既存スキル×新競技】巨大マーケットに進出せよ
日本人は、アスリートを神格化してきた。競技に人生を懸け、結果だけを追い求める「純粋な存在」であることを求めてきた。アスリートが競技以外のことに手を出すと敏感に反応し、「時間があったら競技に集中しろ」と批判を浴びせられる風潮があった。
しかし、アスリートの現実は厳しい。競技だけに集中していると、生計が成り立たないケースが大半だ。現役中に引退後の生活に困らないだけのお金を稼げるのは、日本では野球選手とサッカー選手くらい。マイナースポーツで稼げるのは、特別な才能に恵まれたほんのひと握りの選手だけだ。五輪に出場するような有名選手でさえ、貯金どころか、試合や合宿のための遠征費捻出に四苦八苦している。
そもそも、アスリートほど将来設計が難しい仕事はないだろう。肉体という制約がある以上、必然的にお金を稼げる期間も限られてしまう。そのため、肉体が限界を迎える前に競技で結果を出しながら、「その先」も考えなければいけない。経営に置き換えるなら、アスリートは主力事業である競技の改善(深化)と新規事業となる次の挑戦(探索)を同時に行う「両利きの経営」を個人レベルで実践する必要がある。
船水氏もトップ選手でありながらソフトテニス一本で食べていける確信を得られなかったという。高校、大学と全国大会で優勝し、早稲田大学の4年生時には世界選手権のメンバーに選出され、国別対抗戦で世界一に輝いた。ソフトテニス実業団(NTT西日本)に加入してからも快進撃を続け、チームを何度も日本一に導いた。それでも、将来の見通しは立たなかった。
「収入は同期入社の他の社員と同じ。世界大会で優勝しても、報奨金は30万円のみでした。社会人になって数年が経ったとき、このままではまずいと焦りました」(船水氏)
2020年にはプロに転向し、スポンサー探しに奔走。会社員時代より年収が上がったが、十分ではなかった。そんななか、出合ったのがピックルボールだった。マーケットの大きさにチャンスを見い出し、ソフトテニスとの二刀流で参入を決断した。コートが狭く展開がスピーディーなピックルボールを突き詰めることで、ボレー技術などが向上し、ソフトテニスに還元される効果も期待していた。
一人で渡米してからは、アメリカ全土を回りながら個人で参加できる大会に出場し、ひたすらランキングを上げている。目標は、毎年1月に行われるドラフト会議に選ばれ、MLP選手になること。スカウトの目に留まるためには、大小様々な大会で活躍し、ランキング上位に位置している必要がある。
「今の実力は、ギリギリドラフトに届かない水準。ここからが勝負です。アメリカでは家も借りず、試合場所に合わせて全米中の安ホテルを転々とする日々を送っています。もちろん、大変ですよ。だけど、そんなことは言っていられません。この数年が、人生を懸けた勝負ですから」(船水氏)
【知名度×多角化】現役レバレッジを最大化
アスリートの新規事業が、必ずしも新競技への参入である必要はない。むしろオーソドックスなのは、アスリートとしての知名度を上手に活用しながら、「競技以外の仕事」につなげていくスタイルだろう。
箱根駅伝で輝いた神野大地氏は、ユニークなキャリアを歩んでいる。青山学院大学時代には登りの5区での驚異的な走りで「3代目山の神」として知られた。卒業後はコニカミノルタに入社し、約2年所属したのち、退社してプロの道を選択した。
社員として実業団に在籍するメリットは、競技引退後も安定した給料が保証されること。会社を辞めない限り、生活は安泰だ。一方で、ビジネスパーソンとして活躍できるかは別の話。アスリート採用の場合、現役中は出社頻度も低く、任される仕事も事務作業がほとんど。「1日で終わる仕事なのに納期が2週間後」(神野氏)ということもある。ビジネススキルが身につかずに年を重ねてしまうため、競技引退後は職場になじめず、退職するケースは珍しくない。

神野氏がプロ転向を決断したのは、マラソンでの五輪出場という目標に加えて、自身の可能性を広げるための手段でもあった。実業団に所属していると、距離の短い駅伝の練習をする必要が生じたり、自由に合宿が組みにくかったりするデメリットがある。テレビやSNSなどの露出面でも、会社の許可が必要で、自分で判断できないもどかしさがある。
プロ転向後の神野氏は、本業のマラソンに向き合いながら、知名度を武器に収益源を多角化していった。人気と的確な言葉選びから、解説や講演、トークショーに引っ張りだこで、自分の価値を高めた。自身のランニングクラブ「RETO」を運営し、市民ランナーへの指導も続けている。また、自身でプロデュースするブランドを販売するアパレルビジネスも手掛けているから事業範囲は広い。
競技の結果だけで見れば、現時点で神野氏のマラソン自己ベストは上位30人にも入っていない。実業団に所属したままであれば、露出も減り、ライバル選手に埋もれて、目立たなくなっていたかもしれない。
しかし、多方面の活動の結果、陸上界でオンリーワンのポジションを築き、新たなチャンスをつかんだ。その一つが2024年から新設されたM&Aベストパートナーズ陸上部の選手兼監督への就任だ。31歳という若さで実業団チームを率いるのは異例。現在、2026年1月のニューイヤー駅伝出場を目標に、選手集めに奔走している。
「五輪出場はかないませんでした。でも、挑戦したことへの後悔は一つもありません。プロとして競技以外も試行錯誤したからこそ、次の挑戦につながっていく。自分で動かないと、新しい道は開けませんから」(神野氏)
【スポーツ×起業】アスリートをクリエイター化
船水氏や神野氏のように現役時代から戦略的に動くアスリートは全体のごく一部だ。多くは引退が間近に迫ってから、競技生活を終えたあとの人生について悩み始める。その結果、望まない仕事に就かざるを得ないこともある。
こうした状況に危機感を抱き、スポーツ界の常識そのものを変えようと意気込むアスリート起業家がいる。女子バスケットボール選手の馬瓜エブリン氏だ。バラエティー番組で軽快なトークとギャグを飛ばすエブリン氏を見て、ファンになった人も多いだろう。東京五輪で銀メダルを獲得すると、さらに露出が増え、知名度を上げた。

そんなエブリン氏にはもう一つの顔がある。現役のバスケットボール選手でありながら、スタートアップを経営する起業家でもあるのだ。事業を通して目指すのは、引退後を見据えたアスリートの“見せ方”を支援すること。スポーツ選手の個性を生かして、現役中から選手の「競技以外」で発揮できる価値を模索していく。現役アスリートが同じ立場のアスリートのセルフブランディングを指南するという点がユニークだ。
「きっかけは、実力のある先輩アスリートの方の引退後を知ったことでした。ご本人が望んでいない仕事に就かれている事実を知り、現役中からアスリートが自分のキャリア、競技以外の可能性に向き合う大切さを痛感させられました」(エブリン氏)
彼女が重要視するのは、スポーツ選手に最も華がある現役中の活動だ。一番目立てる期間に“見せ方”を工夫することで、アスリートとしての価値をマネタイズするのだ。現在はファンがお金を払えばアスリートと1on1を実施できるプラットフォーム「Back Dooor」などを運営している。参加アスリートはまだ限定的だが、いずれは海外展開までをも見据えているという。
「私はアスリートが、競技だけではなく自分の人生のオーナーシップを持つことが大事だと思っています。競技だけではなく人生に挑んでいく。その生き様を、現役中という“ボーナス期”にSNSを含めたメディアで拡散して、一人の個性ある人間のファンになってもらう。競技を超えてコミュニティーを形成できれば、起業、投資、社会活動など個人に合った活動のしやすさが格段に上がります」(エブリン氏)
そのために重要なのは「自分を知ること」だと彼女は言う。社会のニーズを読み解き、そこに適応させるかたちで自分の一部を見せていく。それはエブリン氏自ら実践していることでもある。
「バラエティー番組で見せるユニークな一面も偽りのない私の姿ですが、馬瓜エブリンという人間のすべてではありません。まずは自分を理解し、社会との接点を見つけて世の中のニーズを満たしながら、応援してくれる人を増やしていく。するとその先に、違った展開が続いていくはずです。今後のアスリートには、そんな戦略的な思考が求められると思います」(エブリン氏)
かつて「競技一本」しか許されなかった日本のスポーツ界も徐々に変わり始めた。この波がより大きなうねりになれば、これからさらにアスリートによる“新規事業”が続出し、今までにないスポーツ選手像が生まれるはずだ。
text by Hidekazu Izumi / edit by Yoko Sueyoshi

Ambitions Vol.5
「ニッポンの新規事業」
ビジネスマガジンAmbitions vol.5は、一冊まるごと「新規事業」特集です。 イノベーターというと、起業家ばかり取り上げられてきました。 しかしこの10年ほどの間に、日本企業の中でもじわじわと、イノベーターが活躍する土壌ができてきていたのです。 巻頭では山口周氏をはじめ、ビジネスリーダー15組が登場。それぞれの経験や立場から、新規事業創出の要諦を語ります。 今回の主役は、企業内で新規事業を担う社内起業家(イントラプレナー)50人。企業内の知られざる新規事業や、その哲学を大特集します。 さらに「なぜ社内起業家は嫌われるのか?」など、新規事業をめぐる3つのトークを展開。 第二特集では、新規事業にまつわる5つの「問い」を紐解きます。 「企業内の新規事業からは、小粒なビジネスしか生まれないのか?」「日本企業からイノベーターが育たない。 人材・組織の課題は何か?」など、新規事業に関わる疑問を徹底解説します。 イノベーター必携の一冊。そろそろ新しいこと、してみませんか?