
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「う~ん、増井君。この装置は確かにすごい技術だと思うけど、正直、毎日使うかと聞かれたらまだ難しいわね…」
西園寺先生は、苦笑しながら、メロディーアシストを外しテーブルに置いた。
グローバルコネクトとの提携も決まり、事業計画も着々と進んでいた。最終審査の日も、刻一刻と迫っていた。しかし、肝心の製品の使い勝手はまだ最終段階には程遠かった。
増井たちは、連日、西園寺先生のアパートを訪れ、試作品を試してもらい、フィードバックをもらっていた。しかし、なかなか「これだ!」という使い勝手に到達できずにいた。
「具体的に、どのあたりが…?」
増井は、ノートパソコンを開きながら、先生の言葉に期待と不安が入り混じる複雑な思いで耳を傾けた。
「指の動きは、だいぶスムーズになったけど、やっぱり長時間つけていると、指先が痺れる感じがするわね。演奏に集中できないのよ。」
西園寺先生は、少し疲れた様子で指先を揉みながら言った。
「操作もまだ複雑ね。このボタン配置だと、演奏中に直感的に操作できないの。それに、演奏中に画面を見ないと操作できないのも困るわ。」
先生はため息をつきながらメロディーアシストのインターフェースを操作した。
「わかりました、先生。頂いたご意見を参考にすぐに改良版を作ります!」
増井は、焦燥感を隠せない。最終審査まで時間は残されていない。増井たちは、怒涛の開発作業に没頭していった。センサーの形状、素材、配置…。インターフェースのデザイン、ボタン配置、音声ガイダンス…。プログラムの修正、アルゴリズムの調整、AIの再学習…。
寝る間も惜しんで、改良に改良を重ねていた。しかし、西園寺先生は、なかなか満足してくれなかった。
「う~ん、まだ、何かが違うのよね…」
「もう少し、自然な感じで、指が動かせないかしら…」
試作品を試すたびに、先生から、厳しい意見が飛んでくる。増井たちの焦りは、日に日に増していった。
最終審査まで、あとわずか…。
「もう、時間がない…!」
増井は、頭を抱え、自らの無力さに、歯噛みした。その日の夕方、疲れ切った体を引きずって会社に戻ると、見慣れない女性が開発チームのスペースに座っていた。
「あの、どちら様でしょうか…?」
増井は、恐る恐る女性に声をかけた。女性は、振り返ると、微笑んだ。
「お久しぶりです、増井さん。覚えていますか? 森本です。」
「も、森本…!?」

増井は、驚きを隠せない。そこにいたのは、飯島に追い出され、数週間前に会社を辞めたはずの森本樹理だった。
「どうして、ここに…?」
「実は、私、クロスロード・テクノロジーに転職したんです。そして、五十嵐さんにお願いをして。増井さんたちのプロジェクトに、どうしても力になりたくて…」
森本は、少し照れくさそうにそう言った。
「転職? クロスロード・テクノロジーに?」
「そうなんです。五十嵐さんは、私のことを、UXデザイナーとして高く評価してくださって」
森本は、そう言うと、名刺を差し出した。そこには、「クロスロード・テクノロジー UXデザイナー 森本 樹理」と書かれていた。
「UXデザイナー?」
「ユーザーエクスペリエンス、つまり、ユーザーが製品やサービスを使う時に感じる使い心地や満足度を向上させる仕事です。」
森本は、丁寧に説明した。
「すごい、まさに今力を貸してほしい分野だ。でも、どうして、俺たちのプロジェクトに?」
増井は、まだ、森本の真意を測りかねていた。
「増井さん。私は、みなさんのプロジェクトを、心から応援しているんです。そして、西園寺先生の夢を、叶えるお手伝いがしたくて…」
森本の言葉は、真剣だった。彼女の瞳には、増井への強い想いが溢れていた。
「森本。ありがとう…」
増井は、彼女の言葉に胸が熱くなるのを感じた。
「それに、もうひとつ、理由があって…」
森本は、少し頬を赤らめながら、そう言った。
「え…?」
「私、増井さんのことが、ううん、なんでもありません。絶対に西園寺先生に感動してもらる製品を作りましょうね、増井さん。」