
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
森本も加わったことで、プロトタイプ開発の勢いは増していた。日に日に改善されるUXは確かに使い勝手を高めていたが、なかなか西園寺先生が感動するレベルには到達できず、増井たちは焦り始めていた。
そんなある日、森本が西園寺先生のアパートに一人で訪れていた。彼女は、新しい試作品の動作テストデータを持参し、先生にデータ分析結果について説明していた。
「先生、このグラフは先生の指の動きとメロディーアシストの出力のズレを表しています。ここを見てください。特に、トリルの部分で大きなズレが生じていますね。」
森本は、モニターに表示されたグラフを指しながら丁寧に説明した。
「確かに、トリルの部分はなかなかスムーズに弾けないのよね。」
西園寺先生は、興味深そうに、グラフを見つめた。
「森本さん、あなたもピアノを弾くの?」
先生は、ふと森本に尋ねた。
「え? あ、はい。少しだけ、昔習っていました。」
森本は、少し照れくさそうに答えた。
「そう。どんな曲を弾いていたの?」
「ショパンが好きで、ノクターンとか、ワルツとか、よく弾いていました。」
「あら、そう…。私も、ショパンが好きなのよ。特に、ノクターンは、大好きでね…」
西園寺先生は懐かしそうにそう言った。
「森本さん、ピアノを弾く時に一番大切なことってなんだと思う?」
先生は、森本の目を見つめながらそう尋ねた。
「え? 一番大切なこと、ですか?」
森本は、少し戸惑いながら答えた。
「そうですね。やっぱり、作曲家の気持ちを理解すること、でしょうか。楽譜に込められた喜びや悲しみ、そして希望や絶望。そういった感情を音で表現することが大切なのではないかと。」
森本は、少し考えながらそう答えた。
「そう。その通りね。ピアノを弾くということは、ただ単に楽譜通りに音を出すことではないの。作曲家の魂と共鳴することなのよ。」

西園寺先生の言葉は、静かだったが力強かった。そして、その言葉は森本の心に深く響いた。
(作曲家の、魂と、共鳴する。)
森本は、心の中でその言葉を繰り返した。
(そうだ、私たちは、そこに、目を向けていなかった!)
彼女は、ハッとした。
メロディーアシストは、確かに指の動きを補助する装置だ。しかし、それはあくまでも手段に過ぎない。本当に大切なことは、演奏者が心から音楽を楽しみ、表現する喜びを感じることなのだ。
「増井さん、有田さん…!」
森本は、会社に戻ると、興奮気味に増井と有田に自分の考えを伝えた。
「私たちは、メロディーアシストを単なる補助装置として開発してきました。でも本当に大切なことは、演奏する方が、心から音楽を楽しめるようにすることなのではないでしょうか!」
森本の言葉に、増井と有田は目を見開いた。彼らは、これまで技術的な側面ばかりに気を取られ、演奏者の心の声に耳を傾けることを忘れていたのだ。
「森本、そうだ、たしかにそうかもしれない!」
増井は、森本の肩を掴み、そう言った。
「ありがとう、森本さん、私たち、一番大切なことを見落としていたかもしれない!」

有田も、森本に、感謝の言葉を伝えた。
増井たちは、すぐに開発方針を転換した。彼らは、演奏者の感情をより豊かに表現できるよう、メロディーアシストのアルゴリズムを調整し、AIを再学習させた。
そして、彼らは西園寺先生の演奏スタイルを徹底的に分析し、彼女が最も自然に、そして心地よく演奏できるよう装置をカスタマイズしていった。
数日後、増井たちは再び西園寺先生のアパートを訪れた。彼らの手には、バージョン30の試作品が大切に抱えられていた。
「先生、これが、私たちの、答えです。」
増井は、少し緊張した様子で先生に試作品を手渡した。西園寺先生は試作品を装着し、ピアノの前に座った。そして、彼女は、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。
その瞬間、彼女の指は、まるで自らの意志で動いているかのように、滑らかに、そして美しく動き始めた。

メロディーアシストは、彼女の心の動きに合わせて、繊細な音色を奏でた。それは、まるで西園寺先生の魂が、そのまま音に変わったかのような、感動的な演奏だった。増井、有田、鈴木、そして森本は、息を呑んで先生の演奏に聞き入った。彼らの目には、熱いものがこみ上げてきた。演奏が終わると、西園寺先生はゆっくりと目を開けた。彼女の目には、大粒の涙が溢れていた。
「もう一度、あの頃と同じように、弾けた…!」
先生は、感極まった様子で、そう呟いた。
「あなたたちは、私の、夢を、叶えてくれました…」
彼女はそう言うと、増井たちに、深く頭を下げた。増井たちは、先生の言葉に胸がいっぱいになった。彼らは、長い道のりを経て、ついに西園寺先生の夢を叶えることができたのだ。