
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
その頃、コーポレート部門は繁忙を極めていた。特に、川島が主導したグローバルコネクトとの大型提携契約は、成功案件として特に重要視され、多くの社員がそのプロジェクトに巻き込まれていた。川島は、この契約を成功させた功績によって、社内での地位を確固たるものにし、次期役員候補の筆頭と目されていたのだ。しかし、締結された契約書に基づき、業務プロセスの設計と評価を開始していたベテラン社員の目に、契約書の奥底に潜む闇が見つかってしまう。
「この特許技術の無償提供の条項…何かおかしい…」
ベテラン調査員は、その条項に目を留めた。軍事転用可能な技術でありながら、なぜ無償で提供されているのか? しかも、関連部署への情報共有や本社の承認を得た形跡がない。
「川島課長、この条項について、詳しく説明してもらえますか?」
ベテラン調査員は、川島に尋ねた。川島は一瞬、顔色を変えたが、すぐにいつもの自信に満ちた表情に戻ると、巧みに言い訳を始めた。
「ああ、これはですね、グローバルコネクト側からの強い要望で…」
「しかし、このような重要な技術を、無償で提供するとは…」
「ええ、将来的な共同開発を見据えた戦略的な判断です。彼らとの関係を強化することで、より大きな利益を得られると判断しました。」

川島は涼しい顔で続けた。
「この契約については、確かに一部、通常の稟議プロセスとは異なる手順を踏みました。しかし、それはすべて会社にとって最善の結果をもたらすための判断でした。」
川島は、自信に満ちた態度で、用意周到に作り上げたシナリオを語り始めた。
「グローバルコネクトとの提携は、ご存知の通り、我が社にとって非常に重要な案件です。特に、彼らが進めている次世代医療ロボット開発プロジェクトへの参画は、将来的な収益の柱となる可能性を秘めています。」
川島は、まるで真実を語っているかのように堂々と嘘を並べていく。
「しかし、グローバルコネクト側は、当初、我々富士山電機工業の技術力に懐疑的でした。そこで、増井君のチームが開発した『メロディーアシスト』に目をつけたのです」
川島は、巧妙に話題を増井へと移していく。
「増井君は、どうしてもメロディーアシストの事業化を勝ち取りたかった。そのためには、グローバルコネクトとの提携が不可欠だと考えていたのでしょう。彼は、私に無断で黒崎氏に接触し、メロディーアシストの技術をアピールする中で、独断で特許技術の無償提供を匂わせ、口頭で合意してしまいます。新規事業コンテストという社内でも特区のような部門であったことを利用し、法務部門のチェックが緩い状態をつき、私が進めていた取引契約の中に、巧妙にわからないような一文を作成して盛り込まれ、サインに至ってしまったのです。」
川島は、眉間に皺を寄せ、残念そうに首を振った。
「私は、契約締結後にその事実を知り、大変驚きました。しかし、すでにグローバルコネクトとの契約は締結済みであり、契約を白紙に戻すことは、会社にとって大きな損失となる可能性がありました。」
川島は、さも苦渋の決断を迫られたリーダーを演じながら、言葉を続けた。
「グローバルコネクトとの契約締結を優先した結果、このような事態になってしまったことは大変遺憾です。増井君の独断専行は決して許される行為ではありません。コンプライアンス部門の皆様には、厳正な調査をお願いしたい。」
川島は、深々と頭を下げ、会議室を後にした。彼の背中は、まるで重荷から解放されたかのように軽く見えた。
知財部門のベテラン社員でIT課長でもある小笠原は、完璧に取り繕われた川島の言葉に騙され、怒りの矛先を増井に向けつつあった。
「増井君が、そんなことを…?」
彼は、直ちに増井への調査を開始するよう、部下に指示を出した。増井への疑念の種は、静かに、しかし確実に、蒔かれたのだった。
一方、荒川は、ヘルスギアの製品化に向けた準備に追われていた。しかし、彼の心は晴れやかではなかった。吉川花子の冷たい視線、そしてブラックボックス・データからの度重なる要求。彼は、自らが作り出した闇の深淵に、徐々に飲み込まれていく恐怖を感じていた。
その頃、吉川は、誰もいないオフィスでパソコンに向かっていた。彼女は、荒川を告発する決意を固め、告発文を作成するためにブラックボックス・データから送られてきた違法データにアクセスしようとしていた。
「これが、証拠になる。」

吉川は、震える手でUSBメモリをパソコンに差し込んだ。アクセスすると、膨大な量のデータが画面に表示された。患者の氏名、住所、生年月日、病名、治療内容…。それは、見るも無惨な、個人情報の塊だった。
その瞬間、だった。パソコンの画面が、一瞬、暗転した。
ここ最近、富士山電機工業で頻発しているサーバーダウンかとも思ったが、すぐにアクセスが復旧したため気のせいだろうと吉川は気にも止めず、作業を続けてしまった。
しかし、彼女は、この時の自らの行動が、後に大きな悲劇を引き起こす引き金になるとは、知る由もなかった。
