
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
午前9時。富士山電機工業本社ビルはまるで嵐の前の静けさのように不穏な空気に包まれていた。社員たちは、いつもより早い時間から出社し重苦しい沈黙の中で、それぞれのデスクに向かっていた。朝のニュースで報じられた「個人情報漏洩」の衝撃は想像以上に大きく、社員たちの間には不安と動揺が広がっていた。
「信じられないわ…。まさか、うちの会社から…?」
「一体、誰がこんなことを…?」
「大変なことになったわ。株価、どうなってるんだろう…?」
社員たちの間では、ひそひそ声で噂話が交わされていた。しかし、誰一人としてこの事態をどう収拾すべきか、明確な答えを持っている者はいなかった。その頃、社長室では重役たちが緊急会議を開いていた。しかし、会議室の空気は緊迫感よりもむしろ戸惑いと混乱に満ちていた。
「今回の件、一体どうすれば…?」
社長は、弱々しい声でそう呟いた。彼の顔色は蒼白で、額には脂汗がにじんでいた。
「まずは、被害状況を把握しなければ…」
専務が口ごもりながら言った。
「顧客や取引先への説明も必要だ…」
常務も曖昧な言葉を発した。
重役たちは口々に意見を述べた。しかし、具体的な対策案は誰からも出てこなかった。彼らはこれまで順風満帆な経営を続けてきた。しかし危機管理については、全くの素人だったのだ。
「広報部に、記者会見の準備をさせよう…」
社長は、ようやく重い口を開いた。しかし、彼の言葉にはリーダーシップのかけらも感じられなかった。
「社長! もっと迅速な対応を…!」
一人の役員が社長に詰め寄った。
「こんな時だからこそ、リーダーシップを発揮すべきです…!」
別の役員も同調した。しかし、社長は彼らの言葉に何も答えることができなかった。彼は、ただ呆然と椅子に座り込み、事態の収拾を誰かに託したいという思いでいっぱいだった。
その日の午後、富士山電機工業は緊急記者会見を開いた。しかし、会見は混乱を極めた。社長は記者の質問にまともに答えることができずしどろもどろになるばかりだった。
「原因究明はまだこれからです…」
「被害状況については、現在調査中です…」
「責任の所在については、調査委員会の結論を待ちたいと…」
社長の言葉は、記者の怒号にかき消され虚しく響くばかりだった。
「社長! 責任逃れですか!?」
「誠意が感じられません!」
記者たちは怒りをあらわにした。記者会見は大失敗に終わった。その日の夕方、富士山電機工業の株価はストップ安となった。個人情報漏洩のニュースは瞬く間に世界中に広がり、会社への批判は日に日に激しさを増していった。
一方、荒川は自らのオフィスで一人、冷や汗をかきながらパソコンに向かっていた。
「消せ、消せ、消さなければ…!」
彼は、ブラックボックス・データから入手した違法データの痕跡を消そうと必死にファイルを削除していた。しかし、彼の焦りは募るばかりだった。
(どこかに、まだ、残っているかもしれない…!)
彼は、自らの行動が会社に、そして自分自身にどれほどの災厄をもたらすのか理解していなかった。ただ目の前の危機から逃れたいという一心で、証拠隠滅に躍起になっていた。
その頃、吉川花子は自らのアパートの部屋で一人、テレビのニュース速報を呆然と見つめていた。画面には、「富士山電機工業 個人情報漏洩」の文字が大きく表示されている。
「私が、アクセスしたことが、原因で…?」

彼女は、数日前に荒川のパソコンを使ってセキュリティレベルの高いエリアに保管されているデータにアクセスした時のことを思い出した。あの時、画面が一瞬暗転した不審な現象。もしかしたら、それが外部からの不正アクセスを示す警告だったのかもしれない。
(もし、あの時に、私が、もっと慎重に行動していれば…)
吉川は、自責の念に駆られ涙が止まらなかった。彼女は、自分が意図せず重大な事件に関与してしまったかもしれないという恐怖に、押し潰されそうになっていた。