
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
個人情報漏洩事件は、富士山電機工業の根幹を揺るがす大惨事へと発展した。連日のように報道されるニュースは社会全体に大きな衝撃を与え、会社への非難は日に日に増していった。株価はストップ安を記録し続け、取引先からは契約解除の申し出が相次いだ。かつて盤石と思われた電子部品業界の雄、富士山電機工業の牙城は、音を立てて崩れ落ちていくようだった。緊急招集された株主総会は、怒号と罵声の嵐と化した。
「経営陣は一体何をしていたんだ!」
「企業としての責任をどう取るつもりだ!」
激昂した株主たちの声は、社長以下、重役たちの耳に容赦なく突き刺さる。社長は、憔悴しきった様子で頭を下げ続けた。彼の言葉はもはや誰の心にも届かない。事件の責任を問う声は取締役会にまで波及し、ついに社長を含む経営陣総退陣へと追い込まれた。
新たな社長には、社外から招聘された危機管理の専門家である弁護士、鷹野 剛が就任した。鷹野は、鋭い眼光と冷静沈着な態度で、社内改革に乗り出すことを宣言した。
「私は、この会社を再生させるためにやってきました。過去の不祥事と決別し、コンプライアンスを徹底した、透明性の高い企業へと生まれ変わらせます。そのためには、聖域なき改革が必要です。」

鷹野の言葉は、社内に衝撃を与えた。新経営陣には、鷹野の他にも、会計士、コンサルタントなど、ビジネスよりも法令遵守や企業倫理を重視する外部人材が多数就任した。彼らは、それぞれの専門知識を活かし、社内のあらゆる部門、あらゆる業務を精査し始めた。特に、鷹野は過去のすべての大型取引の経緯を徹底的に調べるよう指示を出した。不正の温床を断ち切るためには、過去の膿を出し切ることが必要だと考えたのだ。
コンプライアンス部門は、膨大な量の契約書や稟議書の山に埋もれながら、日夜調査に明け暮れていた。その中で、グローバルコネクトとの大型提携契約は、成功案件でありながらその不審なプロセスに疑義が重なり、特に重要な調査案件と目されていた。
「なんて複雑な契約書なんだ…」
調査に疲れ果てたコンプライアンス部門の担当者を横目に、以前から怪しいと目をつけていた知財部門のベテラン社員かつIT課長でもある小笠原が、川島を直接呼び出した。
「川島課長、やはりこの時の経緯について、詳しく説明してもらえますか?」

小笠原は川島に尋ねた。川島は、一瞬、顔色を変えたが、すぐにいつもの自信に満ちた表情に戻ると、巧みに言い訳を始めた。
「そちらの件は、以前にご説明した通りです。将来的な共同開発を見据えた戦略的な判断です。新規事業であるメロディーライフとの提携もあり仕方なく。彼らとの関係を強化することで、より大きな利益を得られると判断しました。」

川島は、言葉巧みに説明したが、小笠原は納得しなかった。川島が巧妙に隠した契約書の文章構造を読み解き、不正を明らかにしていった。小笠原は確信し、そしてついに決定的となるメールのやりとりの電子ログを見つけた。川島が黒崎と密約を交わし、それを隠蔽するために通常の稟議プロセスを無視して契約を締結していた明らかなログデータが提示された。
やはり川島は、増井たちのメロディーライフがグローバルコネクトと提携交渉を進めていることを知り、巧妙に契約書に一文を紛れ込ませ、責任を彼らに押し付けようとしていたのだ。
証拠を発見した時、小笠原は、怒りを通り越して呆れ果てた。
「ここまでやるか、川島…」
彼は、直ちに鷹野社長に報告した。報告を受けた鷹野は、静かに言った。
「川島を、私のオフィスへ連れて来い。」
社長室に呼ばれた川島は、当初、余裕の表情を見せていた。しかし、鷹野が冷酷な表情で証拠を突きつけると、彼の顔色はみるみるうちに蒼白になっていった。
「こ、これは…なぜ、こんなログデータが、存在するはずがないのに…」
うろたえる川島に小笠原が冷酷な声でつきつける。
「社内事情に詳しい君も、さすがに最新のセキュリティシステムについては把握していなかったようだな。昨今、富士山電機工業のサーバーがよくダウンしているだろう。サイバー攻撃の対象になっていることから、今年、防衛予算を積み増してセキュリティレベルを上げる開発を行ってきたんだ。その結果、ログデータの冗長化と、二重三重の保存システムが導入されているとは知らなかったか。君が消したログは、今は消えてないんだよ。」
川島の顔はみるみる青ざめていく。
「そんな…」
「君が、会社に、どれだけの損害を与えたか、わかっているのか?」
鷹野の言葉は、氷のように冷たかった。
「私は、君を、許さない。絶対に許さない。」

鷹野の言葉は、川島の心に、深く突き刺さった。彼の築き上げた栄光、野望、プライド…すべてが、音を立てて崩れ落ちていく。川島は、その場に崩れ落ち、絶望の淵へと沈んでいった。
富士山電機工業は、新たな嵐のまっただ中にいた。それは、過去の栄光にしがみつく古い体質を洗い流し、未来へと進むための、避けられない試練だった。そして、この嵐は、増井たちの運命をも、大きく変えていくことになるのだった。