
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「一体、俺は、何をしてしまったんだ…?」
荒川正志は、自室の薄暗い部屋で窓の外の灰色に染まった空を眺めながら呟いた。机の上には、冷めたコーヒーと乱雑に置かれた書類の山。その中で、一枚の写真だけが彼の視線を捉えていた。それは、彼と幼い頃の従兄弟、健太が満面の笑みで肩を組んでいる写真だった。健太は、荒川にとって実の兄弟同然の存在だった。幼い頃からいつも一緒に遊び、同じ夢を語り合ったかけがえのない親友だった。
しかし、健太は10歳の時に白血病を発症した。懸命な治療にも関わらず病状は悪化の一途を辿り、わずか一年後、この世を去った。荒川の心には深い傷が残った。彼は、健太の死を受け入れることができず、自らを責め続けた。
「俺が、もっと早く、病気を見つけてあげていれば…」
「俺が、もっと、強い子だったら、健太を、励ましてあげられたのに…」
彼は、健太の死を自分の責任だと感じていた。そして彼は、科学の力で人の命を救いたいと強く願うようになった。
寝る間も惜しんで勉強し、名門大学に進学。ロボット工学を専攻し、医療用ロボットの開発に没頭した。彼は、天才的な才能を発揮し、次々と革新的な技術を生み出した。そして、富士山電機工業にヘッドハンティングされ、若くしてギアーズのリーダーに抜擢された。
彼は、スマートウォッチ「ヘルスギア」の開発に自らのすべてを賭けていた。それは、彼にとって単なる製品開発ではなく、健太への贖罪であり、そして世界中の人々を病気から救いたいという強い願いを実現するための挑戦だった。
しかし、彼はその過程で大きな過ちを犯してしまった。ブラックボックス・データから入手した倫理的に問題のあるデータを使ったこと。それは、彼の心に深い傷を残し、彼を苦しめていた。
「俺は、健太のために人の命を救いたいと思っていたのに…」
荒川は、机に突っ伏し、声を殺して泣いた。彼の心は、自責の念と、後悔の念で引き裂かれそうだった。
個人情報漏洩事件の責任を問われ、社内調査委員会から厳しい追及を受けて以来、彼の心身は完全に疲弊しきっていた。食事も喉を通らず、睡眠も浅い。悪夢にうなされ、夜中に何度も目を覚ます。かつての冷静沈着な天才エンジニアの姿は、そこにはなかった。
荒川は、震える手で一枚の書類に署名をした。それは、休職届だった。
「もう、限界だ…」
彼は、力なくそう呟くと、休職届を封筒に入れ、机の上に置いた。彼の心は、深い闇に沈み込んでいった。
ギアーズのオフィスは、かつての活気を失い、ひっそりと静まり返っていた。開発は凍結され、チームメンバーはそれぞれ別の部署へと異動になっていた。残されたのは、机の上に残された書類の山と、沈黙だけだ。
吉川花子は、一人残されたオフィスで、窓の外をぼんやりと眺めていた。どんよりとした曇り空は、まるで彼女の心情を映し出す鏡のようだった。
荒川が休職してから一週間が経った。個人情報漏洩事件の責任を問われ、社内調査委員会から厳しい追及を受けた荒川は、心身共に疲弊しきっていた。憔悴しきった彼の姿は、吉川の心に深い影を落としていた。
(荒川さん、どうしているかしら…)
彼女は、荒川のことが心配でたまらなかった。ニュースでは事件の責任追及が激しさを増し、経営陣の総退陣が報じられていた。荒川は休職に止まらず、会社から解雇される可能性もゼロではなかった。
(もし、私が…)
吉川は、自責の念に駆られ涙が溢れてきた。彼女は、何度も告発しようとした。告発文を印刷し、封筒に入れ、コンプライアンス部門へと向かおうとした。しかし、その度に足が止まってしまう。

(私が告発すれば、荒川さんは、もっと苦しむことになる。)
荒川はプライドが高く、責任感が強い男だった。もし彼が自分の不正によって会社を解雇されれば、どれほどのショックを受けるだろうか。吉川は、想像するだけで胸が締め付けられる思いがした。
(それに、もしかしたら、あの事件は、私のせい…? )
吉川の脳裏には、数日前、荒川のパソコンを使ってセキュリティレベルの高いエリアに保管されているデータにアクセスした時のことが、何度も蘇ってくる。あの時、画面が一瞬暗転した不審な現象。もしかしたら、それが外部からの不正アクセスを示す警告だったのかもしれない。
(もし、あの時に、私が、もっと慎重に行動していれば…)
彼女は、自分が、意図せず重大な事件に関与してしまったかもしれないという恐怖に、押し潰されそうになっていた。告発すれば荒川はさらに追い込まれる。しかし、告発しなければ不正を見逃したことになり、会社の損害は拡大するかもしれない。
吉川は、苦悩の末、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。それは、彼女が苦心の末に書き上げた、荒川の不正を告発する告発文だった。彼女は、その紙を何度も何度も折り畳んだ。そして、最後は、握りつぶした。