
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
個人情報漏洩事件は、富士山電機工業全体を濁流に飲み込むように混乱させていた。かつての盤石な経営体制は音を立てて崩れ、重役たちは責任の所在を巡り、泥仕合のような醜い争いを繰り広げていた。世間からのバッシングは日に日に激しさを増し、会社は崩壊の危機に瀕していた。
しかし、飯島真理は、この未曾有の危機を前に、奇妙な高揚感に包まれていた。混乱は彼女にとって絶好のチャンスだった。それは、あの男、増井博之への復讐を果たし、自らが権力の頂点に立つための、千載一遇の機会だったのだ。
新社長に就任した鷹野剛は、弁護士出身の外部人材だ。彼は、旧経営陣の腐敗した体質を一掃し、コンプライアンスを徹底した企業へと生まれ変わらせるべく、大規模な組織改革に着手した。だが、鷹野は社内事情に疎く、改革を進めるには内部の情報と協力が不可欠だった。そこに目をつけたのが、飯島だ。
彼女は、新規事業コンテストでは増井に敗北したものの、社内では「情報通」として知られていた。誰と誰が繋がっていて、誰がどんな弱みを握られているのか。社内の人間関係や裏事情を、彼女は蜘蛛のように張り巡らせた情報網ですべて把握していた。
飯島は、鷹野が社長に就任した翌日、早速彼のもとを訪れた。鷹野の改革への賛同を熱弁し、自らの能力と忠誠心をアピールした。
「社長、私はあなたの改革を心から支持しています! 私は、この腐敗した会社をあなたと共に必ずや生まれ変わらせたいのです!」
飯島の言葉は、嘘ではなかった。彼女は、この会社を自分の手で支配したいと心から願っていたのだ。そして、そのためにはまず鷹野の信頼を勝ち取らなければならない。飯島は、計算高い女だった。鷹野の経歴や人柄、趣味嗜好を徹底的に調べ上げ、彼に気に入られるように振る舞った。クラシック音楽好きの鷹野のために入手困難なコンサートチケットを手配し、彼の母校の後輩であることをアピールし、巧みに距離を縮めていった。
さらに、飯島は自らの情報網を駆使し、鷹野の改革に反対する勢力の動きを逐一報告した。誰が、いつ、どこで、何を企んでいるのか。鷹野にとって、飯島はまさに「歩く社内情報データベース」だった。
鷹野は、飯島の献身的な態度と正確無比な情報に次第に心を許していくようになっていった。そしてある日、鷹野は飯島に重要なポストを任せることを決意した。それは、広報部門のトップだった。
「飯島さん、あなたには、広報部長としてこの会社のイメージ回復を任せたい。」
鷹野の言葉に、飯島は、抑えきれない興奮を覚えた。それは、単に重要なポストを手に入れた喜びではなく、増井への復讐に一歩近づいたという底知れぬ喜びだった。
(増井、見ているかしら? 結局すべては、私のものになるのよ。)
飯島は、鷹野の期待に応えるべく、謙虚な態度でその申し出を受け入れた。
「ありがとうございます、社長。必ずや、ご期待に沿えるよう、精一杯努力いたします。」
飯島は、深々と頭を下げ、鷹野のオフィスを後にした。彼女の背中は、まるで、炎上する富士山電機工業の上に君臨する女王のように、不気味な光を放っていた。