
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「まさか、鬼塚が、先に?」
川島秀一のデスクに届いた社内メールが、彼の胸を抉った。
「鬼塚和也、執行役員に就任のお知らせ」
その一文を目にした瞬間、彼の全身から血の気が引いた。
オフィスではすでに鬼塚の昇進の話題で持ちきりだった。営業部の若手社員たちは、鬼塚の実績とリーダーシップを称賛していた。
「さすが鬼塚さんだよな。昨今のコンプライアンス部門の立て直しを成功させた手腕は本当に素晴らしい。」
「しかも、あんなに忙しいのに後輩の相談にも乗ってくれるんだって。やっぱりカリスマだよね。」
耳を塞ぎたくなるような会話が、次々と川島の耳に飛び込んでくる。
「川島さん、聞きましたか? 鬼塚さん、執行役員に昇進されるそうですよ!」
同僚の一人が無邪気に彼に声をかけてきた。
「本当にすごいですよね。やっぱり鬼塚さんは一味違いますよね! 川島さんも鬼塚さんみたいになりたいと思いませんか?」
「ああ、そうだな。すごいよな…」
川島は無理やり笑みを浮かべながら答えたが、内心では怒りと屈辱で煮えたぎっていた。

その日の昼休み。社員食堂の一角に鬼塚の姿があった。昇進を祝うために集まった社員たちに囲まれ、彼は穏やかな笑みを浮かべながら談笑していた。川島は遠巻きにその光景を見つめていたが、どうしても足が動かない。
「あいつが…俺より、先に?」
彼は、握りしめた拳が震えるのを感じた。その後、覚悟を決めた川島は鬼塚の元へと歩み寄った。
「鬼塚先輩、昇進おめでとうございます。さすがです。」
精一杯の笑顔を作りながらそう声をかけたが、その裏には妬みと憎悪が渦巻いていた。
「ありがとう、川島。君もいろいろと大変だったらしいが、これから頑張ろう。一緒に富士山電機工業の未来を作っていこうぜ。期待しているよ。」
鬼塚は柔らかい笑みを浮かべながら、どこか上から目線の言葉を投げかけた。その瞬間、川島の心の中で何かが音を立てて崩れた。
「みなさんからいただく期待には、応えたいと思っているよ。」
絞り出すように答えたが、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
鬼塚が去った後、川島は一人オフィスの隅で頭を抱えた。彼の頭の中には、鬼塚の笑顔と周囲の称賛の声が何度もこだました。
「なぜだ。なぜ、俺じゃないんだ…! どこで間違えたんだ…!」
彼は、机に拳を叩きつけた。その音がオフィスに響いたが、振り返る者は誰もいなかった。
鬼塚の執行役員昇進。それは、川島秀一にとって、単なる敗北以上の意味を持っていた。プライドの崩壊、そして、積み上げてきた野望の終焉を告げる、残酷な宣告だった。
グローバルコネクトとの提携は白紙に戻され、社内調査委員会の目は冷酷に彼を追い詰めていた。特許技術の無償提供という禁断の密約は、もはや隠しきれるものではなかった。自分の築き上げた輝かしいキャリア、緻密に計算された出世コース、そして社長の椅子へと続く道筋。すべてが音を立てて崩れ落ちていく。
鬼塚は、川島にとって常に意識せざるを得ない存在だった。同世代でトップを走る彼を、川島は異常なまでのライバル意識で見ていた。鬼塚の成果は川島にとっての焦燥の源であり、彼の野心を掻き立てる燃料だった。彼を追い越すこと、彼の成功を凌駕すること。それだけが川島の人生を突き動かす動力だった。
しかし、個人情報漏洩という嵐は、二人の運命を皮肉なまでに逆転させた。鬼塚は、自ら管轄する情報セキュリティ部門の大改革を鷹野新社長とともに成し遂げることで信頼を高めた。持ち前のリーダーシップを危機的状況で発揮したこともあって、社内からの信頼はさらに厚くなっていった。
一方、川島は、密約という爆弾を抱え、保身に走ることでしだいに周囲の信用を失っていった。オフィスに残る川島は、一人、窓の外の夜景を見つめていた。かつてあの景色は、彼にとって成功と野望を象徴するものだった。しかし、今、彼の目に映る光の海は、底知れぬ闇のように感じられた。
「なぜ、俺だけが…」
絞り出すような声は、虚しくオフィスに響く。
誰もいない部屋で、彼は孤独に苛まれ、自らの無力さを痛感していた。握りしめた拳は震え、唇からは、苦い笑みがこぼれ落ちる。
鬼塚に、そして運命に、敗北した男。川島秀一の野心は、冷え切った灰と化し、彼の心は復讐の炎に静かに燃え始めていた。