
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
夕暮れ時。西園寺先生のアパートは、いつも通り静かで、どこか寂しげな空気に包まれていた。窓の外には、燃えるような夕焼けが広がっているが、部屋の中はすでに薄暗く、西園寺先生はソファに座り物憂げに遠くを見つめていた。
「先生、お話があります。」
増井は、西園寺先生に新規事業コンテストが中止となり、メロディーアシストの開発が凍結されたことを伝えるために訪れていた。しかし、言葉がうまく出てこない。
「どうしたの? 増井君、顔色が悪いわ…」
西園寺先生は、増井の様子がおかしいことに気づき、心配そうに尋ねた。
「実は、会社の方針が変わってしまい、私たちのプロジェクトは中止になってしまいました。」
増井は、目を伏せながら絞り出すようにそう言った。
「中止…? どういうこと…?」
西園寺先生は、増井の言葉の意味が理解できず、困惑した表情を浮かべた。
「会社が、新規事業に投資する余裕がなくなってしまって…。私たちのプロジェクトも、凍結されてしまいました…」
増井は、言葉を選びながら丁寧に説明した。西園寺先生は、しばらくの間黙って増井の言葉を聞いていた。彼女の顔には、驚きと、そして深い悲しみが広がっていった。
「そうなのね…」
彼女は、静かにそう呟いた。
「先生、本当に、すみません。」
増井は、声を詰まらせながらそう言った。
「増井君、有田さん、そして鈴木さん、森本さん。あなたがたは本当に一生懸命頑張ってくれたわ。その気持ちだけで私は十分嬉しいの。ありがとう。」
西園寺先生は静かに目をつぶり、遠い日の記憶を辿るように語り始めた。
「私はね、主人が亡くなってから本当に毎日が辛かった。ピアノを弾くこともできなくなって、生きがいを見失っていた。一人ぼっちで、この先どうやって生きていけばいいのか、本当に途方に暮れていたのよ。」
西園寺先生の言葉は、静かだが、そこには深い悲しみが滲んでいた。
「そんな時、増井君が訪ねてきてくれた。そして、メロディーアシストの話を聞かせてくれた。指が不自由になってもまたピアノが弾けるようになるかもしれない。そんな希望をあなたがたは私に与えてくれたのよ。」
西園寺先生は、目を開け、増井たちをまっすぐに見つめた。彼女の目には涙が溢れていた。
「プロジェクトは中止になってしまったかもしれない。でも、私はあなたがたと出会えたこと、メロディーアシストに出会えたこと、それだけで本当に救われたの。私の人生は、確実に前向きになれたわ。」
西園寺先生は、涙を拭いながらそう言った。その言葉は、静かだが力強い決意に満ちていた。
「先生…」
増井は、西園寺先生の言葉に胸がいっぱいになった。言葉に詰まり、ただ先生の手を握り返すことしかできない。
「増井さん、先生のおっしゃる通りです。たとえプロジェクトが中止になっても、私たちが先生と出会えたこと、メロディーアシストを一緒に作ってきたことは決して無駄にはなりません。」
森本が、西園寺先生に寄り添うようにそう言った。彼女の瞳にも涙が浮かんでいた。

「森本さん…。ありがとう…」
西園寺先生は、森本の手を握り返した。二人の間には、言葉を超えた深い絆が生まれていた。
「先生、覚えていますか? 初めてメロディーアシストを装着してピアノを弾いた時のこと。」
増井が、少しだけ笑顔を見せながら、そう言った。
「ええ、もちろん覚えているわ。あの時の感動は、今でも忘れられないわ…」
西園寺先生の顔にも笑顔が戻ってきた。
「あの時、先生は『まるで、若い頃に戻ったみたい…』って、おっしゃいましたよね?」
「ええ、そう言ったわ。指が自由に動く喜び、そして音楽を奏でられる喜び。あの瞬間、私は本当に生きていることを実感できたわ。」
西園寺先生は、目を潤ませながらそう言った。
「私たちもあの瞬間、先生と同じ気持ちでした。先生の笑顔を見て、私たちはこのプロジェクトを絶対に成功させたいと心から思いました。」
有田が、感慨深げにそう言ったその時、増井のスマートフォンが鳴った。着信相手は、鈴木彩音だった。

「もしもし、鈴木…?」
「増井さん、大変です!」
鈴木の声は、緊張していた。
「黒田から、メールが!」
「黒田?」
増井は、その名前に、嫌な予感がした。