
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「増井君、君たちのプロジェクトは素晴らしい。だが、今の富士山電機工業では、その真価を発揮することはできないだろう。」
黒田の言葉は、鋭利な刃物のように、増井の心に突き刺さった。

指定された高級レストランの個室。重厚な扉の向こう側には黒田が悠然と座っていた。彼の隣にはかつて父を裏切った男、松永の姿もあった。増井は、有田と本条を伴って黒田からの呼び出しに応じたのだ。
「黒田さん、あなたに言われる筋合いはありません。」
増井は冷たくそう言い放った。黒田はかつて彼の父を陥れ会社から追放した張本人だ。増井は黒田に対して激しい憎悪を抱いていた。
「相変わらず君は頑固だな。だが現実を見ろ。富士山電機工業はもう終わりだ。個人情報漏洩事件で会社は致命的なダメージを受けた。新経営陣は保身に走り新規事業はすべて凍結された。君たちのプロジェクトも例外ではないだろう?」
黒田の言葉は、冷酷なまでに現実を突きつけてくる。しかし増井は反論することができなかった。たしかに黒田の言う通り、富士山電機工業にはもはやメロディーアシストを支える力はない。
「そこでだ、増井君。私は、君たちにひとつの提案をしようと思う。」
黒田は、意味深な笑みを浮かべながらそう言った。
「提案…?」
増井は警戒心を露わにした。
「ああ。君たちのプロジェクト、「メロディーライフ」を、私が買収しよう。富士山電機工業から独立し、私の元で、メロディーアシストを完成させればいい。」
黒田の言葉に、増井たちは驚きを隠せない。
「買収…?」
有田は、信じられないという表情でそう呟いた。
「なぜ、私たちを…?」
本条は、黒田の真意を測りかねていた。
「理由は簡単だ。君たちの技術は素晴らしい。私はその技術を私のビジネスに活用したい。そして君たちには、その才能を存分に発揮してもらいたい。」
黒田は、自信に満ちた表情でそう言った。
「私たちの技術を、あなたのビジネスに?」
増井は、黒田の言葉に嫌悪感を覚えた。
「ああ。私の会社はヘルスケアデータのプラットフォーム事業を展開している。君たちの技術はその事業に大きく貢献するだろう。」
黒田は冷静に説明した。
「しかし、私たちはあなたの下で働くことはできません。」
増井は、断固としてそう言った。彼は、黒田を絶対に許すことはできない。
「ふふふ、そう言うと思ったよ。だが、よく考えてみろ、増井君。君たちは、今、窮地に立たされている。富士山電機工業には、もう君たちを支える力はない。グローバルコネクトとの提携も白紙に戻った。資金調達も困難だろう。」
黒田の言葉は鋭利な刃物のように増井の心を抉った。
「だが、私が君たちを救ってやろう。私の元で君たちの夢を実現させればいい。」
黒田は、増井の目をじっと見つめながらそう言った。彼の言葉は、まるで悪魔の囁きのようだった。
「どうしますか、増井さん…?」
有田は不安そうに増井に尋ねた。
「いろいろ複雑な気持ちはあると思う。でも、冷静に考えればこれは大きなチャンスかもしれない。」
本条は複雑な表情でそう言った。増井は苦悩した。たしかに、黒田の提案は魅力的だった。しかし、彼は黒田を絶対に許すことはできない。
(父さん、俺は、どうすれば…?)
増井は、心の中で、亡き父に問いかけた。彼の心は、激しく揺れていた。