
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
高級レストランでの黒田との会食から戻った増井、有田、本条は、石井を交えて緊急会議を開いた。重苦しい沈黙が会議室を支配する中、増井が口を開いた。
「黒田の提案、どう思いますか?」
彼の声は、怒りと、そして僅かな期待が入り混じった、複雑な響きを持っていた。
「正直なところ、非常に魅力的な提案です。」
有田が、少し躊躇しながら答えた。
「私たちにはもう時間がありません。富士山電機工業には私たちを支える力はない。黒田さんの提案を受ければメロディーアシストは生き残れる。」
「しかし、黒田の支配下に入るというのは…」
本条は、眉間に皺を寄せながら言った。
「彼は、信用できる男ではありません。増井さんの父親を陥れた男です。それに、彼の目的は本当にメロディーアシストの事業化だけなのでしょうか?」
「その通りだ!」
増井は本条の言葉を遮って、力強く言った。
「俺は、黒田の下で働くことはできない! 絶対に嫌だ!」
「増井君、気持ちはわかる。だが、今は感情的に動くべき時ではない。」
石井が、冷静に言った。
「今は冷静に、そして戦略的にこの状況を打開する必要がある。そして、このタイミングで君たちに私たちからひとつの提案をしたい。」
「提案、ですか?」
有田が聞いた。
「そうだ。実は、最終審査通過が白紙になってからずっと、メロディーライフをなんとか生き残らせる方法はないか、水面下で本条さんとずっと検討を続けてきていたんだ。そして、絶体絶命の状況だが、いくつかのピースがはまれば、可能性はあると見えてきた。」
増井は息をのんで石井の言葉を待った。
「今回、黒田からの誘いがあったと聞いて、天は我々に味方したと思ったよ。この誘いが最後のピースになるかもしれない。」
石井は、意味ありげな笑みを浮かべて続けた。
「まず、その出発点だが、黒田には、私たちを受け入れざるを得ない事情があるはずだ。」
「事情?」
増井は、石井の言葉に、首を傾げた。
「ああ。黒田の会社、『ヘルスケアデータ・イノベーション』は、今、新たな資金調達を計画しているという情報がある。彼の会社は、表向きは順調だが、実際にはいくつかの事業で失敗しており資金繰りが悪化しているようだ。おそらく、メロディーアシストを買収し新たな事業の目玉として投資家にアピールすることで資金調達を成功させようと考えているのだろう。」
「なるほど…」
増井は、石井の説明に頷いた。
「そこでだ。私たちは、黒田のその焦りを利用する。彼に、MBOを提案するんだ。」
石井が、静かに言った。
「MBO?」
「マネジメント・バイアウト。私たち自身で資金を調達し、メロディーライフの株式を買い取る。黒田には、投資家として出資してもらう。そうすれば、黒田はメロディーアシストを支配権がないながらも自分たちのグループアセットとしてPRすることができ、資金調達にも有利になる。まさに、win-winの関係だ。」
「しかし、私たちにそんな資金が…?」
有田は、不安そうに言った。
「そこは、私が何とかします。」
本条が、力強く言った。
「私は、みなさんのことを信じている。そして、メロディーアシストの可能性を高く評価している。私が個人的に投資家を探し、資金調達を支援します。」
「本条さん…!」
増井は、本条の言葉に感激した。
「さらに、黒田を説得するためにもうひとつ、切り札を用意する。」
石井は、意味深な笑みを浮かべながら言った。
「グローバルコネクトとの提携だ。」
「グローバルコネクト?」
増井は、驚いた。グローバルコネクトとの提携交渉は、白紙に戻ったはずだった。
「黒田は、メロディーアシストの技術を彼の会社のヘルスケアデータプラットフォームに組み込みたいと考えている。しかし、私たちがグローバルコネクトと提携契約を結んでしまえば、黒田はその技術のすべてを手に入れることはできなくなる。」
「なるほど!」
増井は、石井の戦略に感心した。
「本条さん、あなたには、黒田との交渉を任せたい。あなたの交渉術で彼を説得し、私たちに有利な条件でMBOを実現させてください。」
石井は本条にそう依頼した。
「わかりました。お任せください。」
本条は自信に満ちた表情で答えた。彼女は、自らの交渉術で黒田を出し抜く自信があった。
