
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「わかった。MBO後、黒田からの出資を受けよう。」
増井の言葉に、会議室は静まり返った。有田、本条、そして石井は、増井を見つめた。
「でも、ひとつだけ、条件がある。」
増井は、少し間を置いてから続けた。
「俺は、黒田の下では、働かない。」
彼の言葉は、静かだが力強い決意に満ちていた。
「え…?」
有田は、増井の言葉の意味が理解できず困惑した表情を浮かべた。
「増井さん、それはどういう…?」
森本もまた、増井の真意を測りかねていた。
「俺は、黒田を許せない。あいつは、俺の父さんを会社から追い出した張本人だ。支配権を持たない投資家とはいえ、俺はあいつの下で働くことなんて絶対にできない!」
増井の言葉は、怒りと憎しみに満ちていた。彼の瞳には熱い炎が燃えていた。
「でも増井さん、それでは、メロディーアシストは?」
鈴木は、不安そうに言った。
「大丈夫だ。俺はMBOが成立するまで責任を持ってプロジェクトを進める。だが、MBOが成立した後は、俺はこの会社を去る。」
増井の言葉は、静かだが断固たる決意を感じさせた。
「増井さん…!」
森本は増井の腕を掴みそう叫んだ。
「どうして…!? なんで…!? あなたがいなくなったら、メロディーアシストは…!」
森本の言葉には、焦りと、そして増井への強い想いが込められていた。
「森本、落ち着いてくれ。俺はもう決めたんだ。これは、俺のけじめだ…」
増井は、森本の目をじっと見つめながら、そう言った。
「増井君、本当にそれでいいのか?」
石井は、増井の決意を尊重しながらも心配そうに尋ねた。
「はい。俺はこのプロジェクトを残したい。でも俺は黒田の下では働けない。だから、これが俺の出した答えです。」
増井の言葉は、静かだが、揺るぎない決意を感じさせた。
「増井さん、わかりました。私たちは、あなたの決断を尊重します。」
有田は、涙をこらえながらそう言った。彼女は増井の決断を受け入れるしかなかった。
「増井君…」
石井は、増井の肩を叩いた。彼は、増井の苦悩を誰よりも理解していた。
「あとは頼んだぞ、みんな…」
増井は、チームメンバーたちにそう言い残すと、オフィスを出て行った。彼の背中はどこか寂しげに見えた。
「増井さん…!」
森本は、増井の背中に向かって駆け出した。彼の言葉は、彼女の心に深く突き刺さり、いてもたってもいられなかったのだ。増井の後ろ姿が見えなくなる前に、彼女は彼に追いつき肩を掴んで振り返らせた。
「森本…?」
増井は、驚いた様子で森本を見つめた。彼女の目は、涙で潤んでいた。
「どうして、どうしていなくなっちゃうんですか…?」
森本は、声を震わせながらそう言った。増井の決断は、彼女にとってあまりにも受け入れがたいものだった。
「森本、ごめん。でも、俺はもう決めたんだ…」
増井は、森本の目をじっと見つめながら、静かに言った。
「増井さん…。私、増井さんの気持ち、わかります。私も黒田のことは許せません。でも、増井さんがいなくなったら、寂しい…です…」
森本は、涙を流しながら言った。彼女は、増井への想いを抑えきれなくなっていた。

「森本…」
増井は、森本の言葉に、胸が締め付けられる思いがした。彼は、森本の手をそっと握りしめた。
「ありがとう、森本。俺も、森本と一緒にメロディーアシストを、完成させたかった。でも、これは、俺のけじめなんだ…」
増井は、森本の目を見つめながらそう言った。彼の瞳には、悲しみと、そして強い決意が宿っていた。
「MBOが成立したら、俺はこの会社を去る。でも、メロディーアシストは必ず成功させる。だから森本、お前も諦めるな。一緒に最後まで戦い抜こう。」
増井の言葉は、森本の心に、温かい光を灯してくれた。彼女は、涙を拭いながら、力強く頷いた。
「はい、増井さん。私も、諦めません…!」
二人は、静かに見つめ合った。そこに言葉はもう必要なかった。彼らの間には、強い信頼と、そして、言葉にできない深い絆が生まれていた。
そしてその夜、増井は一人、ビルの屋上へと向かった。冷たい風が吹き荒れ、彼の心をさらに冷やしていく。彼は、遠くに見える夕焼け空を眺めた。燃えるような赤い空は、まるで彼の心の葛藤を映し出す鏡のようだった。
(父さん、俺は、正しいことを、しているのだろうか…?)
増井は、心の中で、亡き父に問いかけた。
しかし、答えは、返ってこなかった。