
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
富士山電機工業本社ビル最上階の役員会議室。重苦しい空気が漂う中、新経営陣による経営会議が開催されていた。議題は、増井たちのチーム「メロディーライフ」の今後について。個人情報漏洩事件の余波が収まらない中、新規事業への投資は凍結されており、メロディーライフの運命は風前の灯火だった。
黒田は、石井や増井を介さず、富士山電機工業経営陣に対して直接、メロディーライフの買収提案を行っていた。
新規事業への投資を引き上げたい経営陣にとって、黒田からの提案は渡りに船。買収してくれるならそれ幸いと、とんとん拍子に事が進もうとしていた中で、MBOの提案を経営陣に飲ませられるか、石井は最大の勝負に出ていた。
「石井君、君から報告があるそうだが…」
新社長の鷹野剛は、鋭い視線を石井に向けた。彼は、弁護士出身の外部人材であり、旧経営陣の腐敗を一掃し、コンプライアンスを徹底した企業へと生まれ変わらせるべく、辣腕を振るっていた。
「はい、社長。先日、増井君率いるメロディーライフに対して、ヘルスケアデータ・イノベーションを率いる黒田元専務より、事業買収の提案があったと認識しております。」
石井の報告に、重役たちの表情は一様に硬くなった。黒田元専務、その名は、多くの重役たちの記憶に、いまだ暗い影を落としていた。
「そうだ。新規事業を整理する段階の我々にとって、彼からの提案は渡りに船だと捉えているが?」
財務部長が、眉をひそめて尋ねた。
「提案書を精査した結果、黒田元専務はメロディーアシストの技術を自社のヘルスケアデータプラットフォーム事業に活用し、グローバルコネクト社との協業も視野に入れているようです。しかし…」
石井は、言葉を区切り、用意した資料をプロジェクターに映し出した。それは、本条が綿密に作成した、メロディーライフのMBO計画書だった。
「我々事務局は、黒田元専務の提案を単なる買収として捉えるのではなく、メロディーライフの更なる成長、そして、ひいては富士山電機工業全体の利益に繋がる戦略的MBOとして再構築することを提案いたします。」
石井の言葉に、会議室の空気が一変した。重役たちは、驚きながらも資料に真剣な眼差しを向ける。
「MBO…?」
「マネジメント・バイアウト。メロディーライフの経営陣が、自社の株式を買い取るということを意味していますか?」
財務部長が、MBOについて確認するように言った。
「ええ。本条さんが中心となり、複数の投資家と交渉を進めており、既に十分な資金調達の目処も立っております。黒田元専務にはこのMBOに一投資家として参加していただくことを提案いたします。」
石井は、本条が作成した資金調達計画、投資家リスト、そして黒田への出資比率などを詳細に説明した。
「つまり、黒田元専務はメロディーアシストの技術を間接的にではあるものの活用できる。そして、増井君たちは黒田元専務の支配下に入ることなくメロディーアシストを事業化できる。さらに、富士山電機工業は、メロディーライフの株式売却益を得ることができ、黒田元専務からの投資によって将来的に更なるリターンも期待できる。これは、まさにwin-win-winの関係と言えるのではないでしょうか?」
石井は、MBOのメリットを力強く説明した。
「しかし、黒田元専務はかつて増井君の父親を会社から追放した人物です。増井君たちが黒田元専務と協力関係を築けるのでしょうか?」
一人の役員が、不安そうに尋ねた。
「その点については、既に増井君とも話し合っており、彼はMBO後のメロディーライフの経営には直接関与せず、技術顧問という立場で開発に専念する意向です。黒田元専務との直接的な接触を避けることで、円滑な事業運営が可能になると考えております。それに、黒田元専務としても、メロディーアシストを完全に手放すよりは、投資家として関与し続ける方が、メリットは大きいはずです。彼は、メロディーアシストを、新たな事業の目玉として投資家にアピールすることで、自社の資金調達を有利に進めようと考えているのでしょう。」
石井は、黒田の思惑を冷静に分析した。
「なるほど。石井君、君の提案は非常に興味深い。しかし、MBOはリスクも大きい。慎重に検討する必要があるだろう。」
鷹野社長は、石井の提案を高く評価しながらも、慎重な姿勢を示した。

「ええ、もちろんです、社長…」
石井は、深々と頭を下げた。経営会議は、その場で結論を出すことなく「MBOの可能性を含め、メロディーライフの今後について、引き続き検討を進める」という方針で締めくくられた。メロディーライフの運命は、まだ、不透明なままだった。しかし、石井の提案は、重苦しい空気に包まれた会議室に一筋の光を灯した。それは、増井たちの夢、そして富士山電機工業の未来を繋ぐ、希望の光だった。