
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
川島秀一は、人気を失い、そのデスクのまわりはひっそりと静まり返っていた。グローバルコネクトとの提携は白紙に戻され、特許技術の無償提供という密約は社内調査委員会によって明るみに出ようとしていた。彼の手元に残されたのは、底冷えする焦燥感と崩れ落ちたプライドの残骸だけだった。
「増井…!」
川島は、力なくその名を呟いた。増井のチーム、メロディーライフが独立に向けて動いているという噂は既に社内に広まっていた。
(くそっ、あいつだけ、どうして…!)
川島は、増井への激しい嫉妬に駆られていた。自分はすべてを失ったというのに、増井はMBOだかなんだかしらないが、独立という華々しい提案を繰り広げ、再び成功への道を歩もうとしている。かつて自分が心の底で見下していたあの冴えない同期だった増井が。
「許せない、許せない…!」
川島は、デスクに置かれた空のウイスキーボトルを握りしめ、歯ぎしりした。
(このまま終わるわけには、いかない…!)
彼の心は、焦燥感と復讐心で燃えていた。
川島は、復讐心と失墜した名誉を取り戻す執念から、最後の勝負に出ることを決意していた。彼は社内調査委員会の動きを巧みに利用し、虚偽の情報を使って増井たちを失脚させるべく暗躍し始めた。
「増井博之の父親が横領をして会社を追放されたのは、周知の事実だ。しかし彼自身もまた不正を働いている可能性が高い。MBOはそんな危険人物に信頼を託す無謀な行為です。」
調査委員会のメンバーたちが集まる会議室で、川島は冷徹な口調で訴えかけた。彼の手元には、増井の父親に関する「新たな証拠」と称する捏造資料、メロディーアシストの技術的欠陥を示唆する虚偽の報告書、さらにグローバルコネクトとの提携交渉における増井の「不正行為」をでっち上げた告発文が揃えられていた。
「これを見てください。増井のプロジェクトは根本的に問題を抱えています」
川島は、巧妙に捏造されたデータを示しながら説明を続けた。その資料には、メロディーアシストが長時間使用時に安全性を欠くという虚偽の評価や、グローバルコネクトとの交渉過程で増井が不適切な手段を用いたとする偽の証拠が含まれていた。
調査委員会のメンバーたちは、川島の主張に耳を傾けつつもどこか半信半疑という様子だった。しかし、川島の巧みな話術と執拗な訴えかけに次第に委員たちの中に不信感が芽生え始めた。
「確かに、ここに示されたデータを見ると、いくつか不安要素があるように思えますね…」
一人の委員が呟くと、他のメンバーたちも頷き始めた。川島はその様子を見て、手応えを感じた。彼はさらに追い打ちをかけるべく、増井の父親の事件に話題を移した。
「増井の父親が横領で追放されたのは、皆さんもご存じの通りです。しかし、私は調査の過程で新たな証拠を見つけました。彼の父親が横領した資金の一部が、増井自身の手に渡っていたという可能性です。」
川島は、あたかも真実であるかのように話を続けた。その場では確たる証拠は示さなかったものの、彼の言葉は調査委員会のメンバーたちの心に疑念の種を蒔くには十分だった。
その頃、増井たちは、調査委員会が自分たちに対して厳しい態度を取るようになったことを感じ取り、何かが裏で動いていることを察知していた。有田が調査委員会のメンバーの一人に接触したところ、川島が虚偽の情報を流している可能性が高いことが判明した。
「川島が…?」
増井は、驚きと怒りで拳を握りしめた。かつての同期であり、ライバルだった川島がここまで堕ちるとは思ってもみなかった。
「この状況が進行すれば、MBOは不可能になるかもしれない。」
本条が冷静に状況を分析しながら言った。
「私たちは川島の捏造を証明しなくてはなりません。そのためには、彼の資料が虚偽であることを示す確固たる証拠を集める必要があります。」
増井たちは迅速に動き出した。鈴木は、メロディーアシストの技術的欠陥に関する報告書が虚偽であることを示すため、過去のテストデータを精査し、専門家の意見を集めた。有田は、グローバルコネクトとの交渉記録を調査し、川島の言い分が事実無根であることを証明するための証拠を集めた。そして、ついに彼らは決定的な証拠を手に入れた。川島が捏造した資料の一部には、富士山電機工業の公式文書と異なる矛盾点が含まれていたのだ。
調査委員会の次回会合で、増井たちは反撃に出た。
「皆さん、これが川島氏の提示した資料における重大な矛盾点です。」
本条は冷静に語り、証拠を一つずつ提示していった。

調査委員会のメンバーたちは次第に増井たちの主張に納得し始め、川島の策略に反撃する増井たちの論理は、調査委員会のメンバーたちを次第に納得させていった。しかし、川島はまだ諦めていなかった。彼は顔を引きつらせながらも、さらに強気の姿勢で反論を試みた。
「これらの証拠が矛盾しているというのは、単なる解釈の違いです!」
川島は声を荒らげ、調査委員会のメンバーに向かって訴えた。
「増井たちは自分たちの利益を守るために必死になっているだけです! 私が提出した資料の信憑性を否定する前に、慎重に再検証するべきです!」
だが、増井たちは冷静さを失わなかった。有田は一歩前に進み出て、川島をまっすぐに見据えた。
「それでは、川島さん。この捏造されたデータの出所を示してください。あなたが説明責任を果たせないのであれば、あなたの主張は信じるに値しません。」
その瞬間、川島の表情が凍りついた。捏造した資料の出所を聞かれても彼には答えようがなかった。それどころか、増井たちが提示した矛盾点はあまりにも明白で、もはや言い逃れることはできなかった。
「川島さん、これ以上、虚偽の情報を用いて他人を陥れる行為を続けるのはやめてください。」
本条が、毅然とした態度で川島に語りかけた。
「あなたの行動は、会社全体に害を及ぼすものです。」
調査委員会のメンバーたちは、一斉に川島を非難する視線を向けた。川島は、その場に立ち尽くし、何も言い返せなかった。彼の目には、焦りと恐怖が浮かんでいた。
「川島課長、これ以上の追及が必要な場合、あなたに調査対象として詳細な説明を求めることになります。」
調査委員会の議長が、冷たい声でそう告げた。
「あなたの行動は、極めて問題があると言わざるを得ません。」
川島は、小さく震えながらその場を後にした。彼の背中は、敗北感と孤独に押しつぶされるかのように小さく、そして哀れだった。一方、増井たちは調査委員会からの支持を取り戻したが、依然としてMBOへの反対意見は根強く残っていた。ひとたび人の心に生まれた疑心は簡単には払拭しきれない。
会合が終わり、増井たちが一息つこうとしていたその時、鈴木がスマートフォンを握りしめて駆け寄ってきた。
「増井さん! 新しいニュースが流れています。黒田元専務の会社で、重大な不正疑惑が持ち上がっているみたいです!」
増井は、鈴木のスマートフォンに表示された記事に目を通した。そこには、黒田の会社がヘルスケアデータを違法に利用していた可能性があるとする告発記事が掲載されていた。
「これは…」
増井は、言葉を失った。黒田の不正疑惑が明るみに出れば、彼らのMBO計画にも大きな影響を及ぼす可能性があった。
「どうするんですか、増井さん?」
有田が増井を見つめながら尋ねた。
「このままでは、私たちの計画も巻き込まれてしまうかもしれません。」
増井は、深呼吸をして冷静さを取り戻そうとした。
「まずは、この情報を精査しよう。そして、私たちの立場をきちんと守るために、次に何をすべきかを考えよう。」
不正疑惑の報道によって、新たな試練が彼らを待ち受けていた。しかし、増井たちはこれまで数々の困難を乗り越えてきた。彼らの目には、再び強い意志の光が宿っていた。
ある日、増井は川島に呼び出された。場所は、人気のない薄暗い廊下だった。
「増井…」
川島は増井の肩を掴み、力なくそう呟いた。調査委員会で最後に姿を目にしてから、しばらくの時間が経っていた。彼の目は充血し顔色はやつれていた。

「川島、お前、一体…?」
増井は、川島の異様な様子に、驚きを隠せない。
「ふざけるな、お前だけ、どうして…!」
川島は、増井の胸ぐらを掴み、怒りをぶちまけた。
「俺は、すべてを失った。なのに、お前だけ、MBOだ…? ふざけるな…!」
川島の言葉は、支離滅裂で意味不明だった。しかし、増井は彼の言葉の奥底にある深い絶望と自暴自棄を感じ取ることができた。
「川島、お前…。一体、どうしたんだ…?」
増井は、心配そうに尋ねた。
「うるさい! 黙れ…!」
川島は、増井を突き飛ばしその場を立ち去った。彼の背中は、小さくそして哀れに見えた。
増井はその場に立ち尽くし、複雑な思いで川島の去りゆく背中を見つめていた。彼は、川島の嫉妬と憎悪を理解することができなかった。

(川島、お前も、犠牲者の一人なのか…?)
増井は、心の中で、そう呟いた。
彼は、川島を哀れに思った。そして同時に、彼をこの不幸な運命へと導いた富士山電機工業という組織の闇の深さを改めて実感したのだった。