
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「こちらのデイサービスセンターは、レクリエーションに力を入れておりまして」
有田と増井、そして本条の3人は、「養老館」に続き、別の介護施設を訪れていた。この一週間、彼らは都内近郊の様々なタイプの介護施設を巡り、現場の声を聞き続けていた。しかし、3人の表情は日を追うごとに曇っていくばかりだった。
「正直、どの施設も深刻な人手不足で、職員の方々は疲弊しきっている印象でした。」
夜遅く会社のオフィスに戻った有田は、机に突っ伏しながら力なく呟いた。増井も、パソコンの画面を虚ろな目で眺めながら深くため息をついた。
「俺たち、本当にこの事業を成立させられるのだろうか…」
いくつもの施設を巡り、膨大な量のヒアリングデータが集まるにつれ、彼らの目の前に広がったのは、介護業界の複雑に絡み合った問題と、その深刻さを物語る現実だった。人員不足、高齢化の加速、介護報酬の低さ、入居者と家族の負担、そして、介護従事者たちの疲弊。どの問題も、簡単に解決できるものではなく、電子部品という彼らの武器でどこまで切り込めるのか。見通しはまったく立たなかった。
「やっぱり、私たちなんかには無理なのかもしれない…」
有田は、弱々しく呟いた。その言葉には、これまで見せたことのない、深い絶望が滲んでいた。

「有田…」
増井は、そんな有田を心配そうに見つめた。しかし、彼自身もまた心は絶望に向かっていた。
「どんなに頑張っても、結局、私たちのような電子機器部品メーカーの一般社員には、介護施設の現場の負担を減らすなんて大それたことは、到底できないのかもしれないですね。」
有田の言葉は、増井自身の心の奥底にしまい込んでいた不安を、容赦なくえぐってくるようだった。
「それに、もう時間がないんです。」
有田は、そう呟くと、静かに目をつぶった。増井は、彼女の言葉の意味が分からず、ただ、困惑した表情を浮かべた。
有田の脳裏には、事業部長と人事部長に挟まれ、胃の痛くなるようなプレッシャーの中で新規事業の進捗報告をしている自分の姿が浮かんでいた。彼女は、今の会社に転職する際、ヘッドハンティングで「新規事業責任者として、2年以内に目に見える成果を出すこと」を条件にした待遇で迎え入れられていた。そして、そのリミットが、刻一刻と迫っていたのだ。
「このままじゃ約束を果たせない…」
有田は、心の中で、焦燥感に駆られていた。
新規事業を成功させ、結果を出して、自分の実力を証明したい。介護業界に革命を起こし、多くの人の笑顔を生み出したい。そんな彼女の強い想いは、目の前の巨大な壁に阻まれ、崩れ落ちそうになっていた。