
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「結局、何の課題にフォーカスすればいいんだ」
介護施設から戻った日の夜。増井は、山積みの資料を前に、悩みに悩んだ。幾つもの施設を巡り、膨大な量のヒアリングデータと現場の生々しい声が、彼の頭の中を乱雑に駆け巡っていた。その言葉を聞きながら、同じく悩みに悩んでいた有田は、本条が残した「私たちだからこそ解決できる課題」という言葉と、施設で見てきた高齢者や介護士たちの姿を思い出していた。そして、ひとつの考えが彼女の頭を巡った。
「確かに、介護施設には様々な課題がありますよね。でも、もしかしたら、ヒアリングで得たひとつひとつの課題を直接解決することは、私たち富士山電機工業の担うべき課題じゃないのかもしれないです。」
有田の言葉に、増井は顔を上げた。
「どういうことだ?」
「本条さんの言葉を思い出してみて。私たちが目指すべきは、富士山電機工業の強みである『電子部品』を使って解決できる課題を見つけること。」
有田は、ホワイトボードに「電子部品」と書き殴ると、続けた。
「もしかしたら、私たちは、介護施設という『場所』にとらわれすぎていたのかもしれない。」
「場所?」
「そう。介護が必要な人たちは、施設にいる人だけじゃない。病院で療養している人、自宅で家族に支えられている人、もっと広い視野で、『顧客』を捉えたらいいのかもしれない。」
有田の言葉に、増井はハッとした。これまで、「介護」という言葉に囚われすぎて、「人」を見ることを忘れていたのだ。
確かに、その通りだ。介護施設で働く人たちはもちろん、介護を必要とする本人、その家族。みんなが課題を抱えているし、みんなが『顧客』になり得るんだ」
増井は、パソコンに向き直ると、これまで集めたヒアリングデータを勢よく見つめ直していった。施設の設備やサービスに関するデータ、職員の意見や要望。
「きっと、このデータの中にこそ答えがあるはずだ」
そして、増井は、膨大なデータの中からある特定の項目に目が止まった。それは、介護施設の職員が、日々の業務の中で感じている「小さな不便」や「改善したい点」に関するデータだった。
「有田、見てくれ。ここには、職員の方々が日頃感じている、些細な困りごとがたくさん記録されている」

例えば、車椅子の高齢者の移動介助中にわずかな段差で車輪が引っかかってしまうこと、夜間の巡回時に部屋の明かりが眩しくて入居者の睡眠を妨げてしまうこと、ナースコールの音が聞き取りにくく対応が遅れてしまうこと。これまでの現地ヒアリングによって、さまざまな介護現場の「生の声」が記録されていた。
「介護施設とい場所に限らない。どれもが確かな『不』で、その『不』を深く掘り下げていくことで、もっと違う何かが見えてくるかもしれない。」
2人は再び熱意を取り戻し、議論に熱中し始めた。
「よし、まずは、これらの課題の中から、電子部品を使って解決できそうなものをピックアップしてみよう」
「ええ! そして、今度は介護施設だけでなく、病院や在宅介護の現場にも足を運んで、もっと深く顧客の声を聞いてみましょう!」
2つの光が、再び暗闇の中に灯った。彼らは、顧客という希望の光を頼りにまだ見ぬ未来へと、再び歩み始めたのだった。