
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「今日は、在宅介護の現場を訪問してみましょう」
ヒアリング先を介護施設から多角的に広げて訪問を繰り返していた増井と有田。その数は150件を超える数にまで上っていた。訪問を繰り返して課題の話を聞くたびに、胸が締め付けられるような課題と、そして事業化の可能性を感じる日々が続いていたが、これだ!と確信を持てるテーマには出会えないでいた。
その日は、本条のつながりの中で、在宅介護事業を営む経営者から、実際の現場となるシニア女性を紹介され、現地を訪問する予定が組まれていた。有田と増井、そして本条は郊外の閑静な住宅街にある一軒のアパートに到着した。
インターホンを押すと「はーい」と、少し間を置いてから弱々しい女性の声が返ってきた。
ドアを開けると、小柄で痩せた70代後半と思われる女性が不安げな表情で立っていた。
「あの、どちら様でしょうか。」
「こんにちは、私たちは…」
有田が、会社名と訪問の目的を告げようとした時、増井が女性の顔を見てハッとした。
「もしかして、西園寺先生、ですか?」
女性は、怪訝そうな顔をした。
「西園寺…? ああ、昔、その名前でピアノを教えていましたけど」
「やっぱり! 僕、増井です。増井博之! 昔、先生のところにピアノを習いに来ていた増井です!」
増井の言葉に、女性の表情が一瞬にして明るくなった。
「まあ!まあ! 増井くん、あの増井くんなの!? なんてこと、立派になって…」
西園寺先生と呼ばれた女性は、20年以上も昔、増井が小学生の頃に通っていたピアノ教室の先生だった。

「よく、来てくれたわね。どうぞ、上がって。」
西園寺先生は二人を部屋に招き入れた。部屋は、古いが丁寧に掃除されており、壁には色褪せたピアノの発表会の集合写真が飾られていた。
「先生、この写真! 懐かしいですね。この写真、僕が小学5年生の時のです。」
増井が写真に視線を向けると、そこには幼い頃の彼と、優しい笑顔の西園寺先生が写っていた。
「そうね。あの頃は、元気な生徒がたくさんいたんだけど…」
西園寺先生は、遠い目をしながら静かに呟いた。
「先生、お一人暮らしなんですか?」
有田が尋ねると、西園寺先生は、小さく頷いた。
「ええ、主人は5年前に亡くなりましてね。子供もいませんし。」
「ご家族の方は?」
「兄夫婦が近くに住んでいて、時々、様子を見に来てくれるんですが。二人とも仕事で忙しいものですから…」
西園寺先生は、そう言うと、静かにため息をついた。
「それにね。実は最近、少し足腰が弱ってしまって。買い物に行くのも一苦労なんです…」
西園寺先生は、申し訳なさそうに、そう打ち明けた。
「それに、一番辛いのは、もう、ピアノが弾けなくなってしまったこと。」
西園寺先生は、部屋の隅に置かれた、埃をかぶったアップライトピアノに視線を向けた。

「昔は、毎日何時間も練習していたのにね。今は、椅子から立ち上がるのもやっとで。」
その言葉に、増井は胸を締め付けられる思いがした。西園寺先生は、増井にとって単なるピアノの先生ではなかった。厳しいながらも温かい指導で、増井に音楽の楽しさを教えてくれた恩師であり、学校生活の中で友人関係に悩んだ時も、両親のように彼の成長を見守ってくれた存在だった。そんな彼女が、今は老いと孤独に苦しみ、大好きなピアノさえも弾くことができなくなっている。
「何とか、先生を助けたい」
増井は、心の中で強くそう誓った。西園寺先生の言葉は有田の胸にも響いていた。
「私たち富士山電機工業の電子部品の力で、何かできることはないのかしら」
有田は、本条と顔を見合わせた。顧客の声を探す旅は、思わぬ再会と新たな課題との出会いをもたらした。そしてこの出会いが、有田と増井にとって、電子部品と健康というテーマを超えたもっと大きな挑戦へと繋がる序章になるとは、この時のふたりはまだ知らなかった。