
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
東京のビジネスエリア、丸の内の眼下に広がるコンクリートジャングルの一角にある、ガラスとスチールの壮大な建築物が、国内外に幅広いネットワークを持つ電子機器部品メーカー「富士山電機工業」の本社だ。オモテナシの心をモットーに、長年にわたってICチップから半導体まで、あらゆる電子機器部品を取り扱ってきたこの企業は、頑なに業界の三番手の座を守り続けている。

一時代は、自前のラボを立ち上げ、新製品の導入と独自の販売ネットワークを構築したことで業界を牽引したが、最近の業績は頭打ち。特に最先端技術の普及により、その競争優位性が薄れ、AIを駆使した上位二社との差が年々開いていた。
富士山電機工業は、新興企業が急速に変えた市場構造の中で、大規模な事業再編を試みる勇気がなかった。その結果、テクノロジー業界で活躍するスタートアップ企業に、優秀な社員を次々と引き抜かれ、組織も疲弊。新卒から数えてもう20年以上の年月が流れたベテラン社員たちは、この状況に肩をすくめ、日々の業務に没頭する一方で、デジタルネイティブ世代の若手社員たちは、未来への恐怖と期待が交錯する中で、新たな風に逆らうかそれとも乗るか、日々葛藤していた。
富士山電機工業のオープンスペースオフィスの一角、窓からも遠く離れた陰鬱な位置に、増井博之のデスクが存在していた。ビルのコンクリートの壁に背を向けて設置されているそのデスクは、窓からの日差しや風景の一切を遮断し、社内でも存在感が希薄なその場所は、まるで彼が会社の中で果たす役割を象徴しているかのようだった。

彼のデスクの上には、データ解析の業務に必要なPCと、乱雑に積まれた書類、そしていつも冷めてしまうコーヒーが一杯だけ。デスクの一部は古くなった写真立てで占められている。その中には、笑顔の母親と若い増井、そして何年か前に逝去した父親の家族写真が収められていた。
増井は会議でもあまり発言せず、自分から積極的に意見を出すことも少ない。時折上司から質問を受けると、淡々とした調子で答えるだけ。彼の評価はいわゆる平均で、特別な評価を受けることも、また下げられることもない。だから彼の存在は、周囲の社員たちにはほとんど忘れられてしまっていた。
同僚たちは彼を見て、「増井はいつも同じテンポだ。出世を望んでいないんだろうな」と半ば冷笑しながら話す。彼らにとって、増井は社内での彼らの位置を際立たせる一種のバロメーターとなっていた。しかし、その皮肉な発言の裏には、増井の凛とした態度への羨望も感じられる。彼らが出世を求め、プレッシャーに追われる中、増井だけは自分のペースを保ち続けていたからだ。
ある金曜日の夕方、社内で行われる週末の楽しい飲み会が始まった。その場には、皆が期待するチームリーダー、川島秀一率いるコーポレート戦略課のメンバーたちが颯爽と現れた。彼らは一緒に大きな笑い声をあげながら、場の雰囲気を一変させた。
川島は、まわりを見渡し、すぐに増井の存在に気付いた。うっすらと皮肉めいた笑みが浮かび、無邪気な笑い声を上げた川島は言った。
「おお、増井。まだデータ分析課にいるんだな。」

新人の頃、川島秀一と増井博之は同じ営業第二部に配属されていた。初めから川島の営業成績は輝かしく、一方の増井は全力を尽くして川島の背中を追っていた。しかし、10年前、彼の父が会社から横領の疑いをかけられ、解雇された事件をきっかけに、増井の運命は大きく狂ってしまった。増井の父は「日本の産業基盤を支える」と日夜仕事に打ち込み、富士山電機工業の成長を牽引した実力者。専務まで上り詰めた人物だった。増井もそんな父を心から尊敬し、自らも新卒で富士山電機工業へ入社を決めた。そんな父が、横領の疑いで解雇されてしまったのだ。増井の父は無実を訴え続けたが、会社側は聞く耳を持たず、事件は迷宮入り。心を祟った母は、病に倒れてしまった。それ以来、増井自身も、仕事よりも家族の介護を優先せざるを得なくなった。そして、増井自身も過労とストレスから体調を崩し、成績は一気に下降線を辿っていった。
増井は、父を陥れた人物が、黒田というOBであることを確信していた。黒田はその後、専務にまで上り詰め、社内で絶大な権力を握っていった。増井は、黒田に復讐することを誓ったが、黒田の在任期間中には何もできなかった。力のない一社員が、巨大な組織に立ち向かうことなど、不可能だったのだ。
さらに、母の容態は思うように改善せず、増井自身の体調も一向に好転しなかった。会社での仕事も増える一方で、彼の精神状態は限界を超え、ついには成績が底をついてしまった。
結果として、営業部から離れ、データ分析課へと配置転換されることに。売上の前線から後方へと下げられた増井は、母親の病気と自身の体調不良という二重の困難に直面しながら、自分自身のありかたを見つめ直していた。
その事実を川島は忘れていなかった。
「増井、あの頃は君も大変だったよな。でも、どんなときでも自分の可能性を信じることが大事だと思うんだ。」
と、無責任に明るい声でアドバイスを投げかけた。
増井は何も言うことはなかった。ただ、そっと頭を下げた。川島との差に対してではなく、自分自身の限界を感じる切なさからだった。可能性を信じる。その一言が彼には重く響いた。自分の可能性を信じることができる川島と、それができない自分との間にある差は、業績以上に大きなものだと、増井は感じていた。
その夜、増井は自宅で自分の姿を鏡に映し、黙って考え込んだ。
「自分の可能性を信じるとは?」
しかし、
「もう何も変わらないんだ。」
増井は人生に諦め、深い眠りに落ちていった。
この時点で、彼が新規事業に挑戦することなど想像もできなかった。
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