
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
消毒液の匂いが鼻をつく白い廊下の先に、車椅子に乗った高齢女性の背中が見えた。有田と増井、そして本条の三人は「養老館」の施設長・山田に連れられ、施設内を見学していた。
「こちらの田島さんは、去年の秋に転倒されましてね。大腿骨を骨折してから、歩行が困難になってしまって…」
山田の説明を受け、有田は田島さんに視線を向ける。田島さんは、虚ろな瞳で遠くを見つめており、山田の言葉に反応を示すことはなかった。
「田島さんのようなケースは、決して珍しくないんです。人手不足の現状では、どうしても目が行き届かない時間帯もあって…」

山田の言葉に、増井は、重い気持ちで頷いた。彼は、母親の介護経験から、高齢者が抱える不安や、介護する側の負担の大きさを、身をもって知っていた。
「食事介助や入浴介助など、肉体的にも精神的にも、介護の仕事は本当に大変です。それでも入居者の方々に、少しでも長く、自分らしく生きていただきたい。その一心で、私たちは日々奮闘しています。」
山田の言葉には、介護現場で働く人々の、強い責任感と愛情が込められていた。
別の部屋では、数人の高齢者が、車椅子に座ってテレビを見ていた。しかし、彼らの視線はテレビ画面ではなく、遠くを見つめているようだった。
「認知症の症状が進んだ方々は、どうしても周りの世界に無関心になってしまいがちです。ご家族の写真を見せてすら、反応が薄くなってしまうこともあります。」
山田の説明に、有田は胸を締め付けられる思いがした。
「ご家族の方々も、離れて暮らしているとなかなか頻繁に会いに来ることができず、寂しい思いをされている方が多いんです。」
施設見学を終えた後、三人はカフェスペースで、テーブルを囲んでいた。しかし、介護施設の重苦しい空気のせいか、会話は弾まなかった。
「課題は山積みなことはよくわかった。でも、結局、私たちは電子部品で何ができるっていうの?」
有田の言葉に、増井は苦悩の色を浮かべる。
「人手不足を解消するロボット? 認知症を予防するデバイス? どれも、既にあるものの二番煎じにしかならない。」
本条は、静かに二人の言葉に耳を傾けていた。
「確かに、介護業界が抱える問題は根深いものです。重要なのは、その中から、私たちだからこそ解決できる課題を見つけ出すこと。」
「私たちだからこそ、解決できる課題?」
「そうです。富士山電機工業の強みである電子部品と介護現場のニーズを繋ぐ、最適なソリューションは必ず存在するはずです」
本条の言葉は力強かった。しかし、有田と増井の心は迷うばかり。そんな簡単に画期的な製品案が降ってわいてくるわけではなく、まるで出口の見えない迷宮に迷い込んだかのような苦悩がふたりの心を支配していた。