
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
有田恭子とのランチの後、増井博之は無意識に本屋へと足を運んでいた。新規事業案への煮え切らない想いが渦巻く中、ヘルスケア関連の書籍が並べられた棚の前を通りかかった。医学的な専門書、最新の健康技術についてのレポート、業界最前線の情報を提供する雑誌などが目の前にずらりと並べられており、増井は何を手に取るべきか、どの情報が今の自分に役立つのかすら分からない無力感に苛まれた。
何気なく手に取った「デジタルヘルスケア革命」と題された一冊の本を、パラパラとページをめくりながら読み進めてみると、そこには、ヘルスケア業界の急速なデジタル化とその進化、そしてそれに伴う新たなビジネスチャンスや問題点が詳細に描かれていた。しかし、その内容は有田恭子が提案したビジネスアイディアを支持するものではなかった。むしろ現状のヘルスケア業界が一見すると想像していた以上に競争が激しく、新規参入には多くの困難が待ち構えていることを示しているように感じた。
「やはり新規事業なんて無理だよな…」
増井はその本を閉じ、複雑な感情で本屋を後にした。
次の日。もやもやした気持ちを抱えながら、増井は誘われるがままに、有田とのブレインストーミングセッションに参加した。ブレインストーミングとは、新しいアイディアを出すために考案された会議の手法で、増井ははじめて取り組んだ。戸惑いながら参加する増井に対して、ブレインストーミングのやり方を解説しながら、有田は溢れんばかりの熱意でセッションを進行した。

「増井さん、いっさい否定することなく、新しいアイディアを出していきましょう。まずは私から。私たちが提供すべきヘルスケアサービス、それはテレヘルス(遠隔医療)だと思うんです。電子機器部品メーカーとしての私たち富士山電機工業の強みを活かし、遠隔からでも医療サービスが提供できるハードウェアとソフトウェアを開発するという案です。どうですか?」
有田は立て続けにアイディアを繰り出し、意気込んで議論を展開し、増井を魅了しようとした。
しかし、半信半疑の増井は冷静さを失うことはなかった。
「面白いアイディアだけど、具体的な形にするにはどうすればいいんだ? 技術面、法規制面、利用者の拡大方法など、もっと具体的な計画が必要だよ。」
有田は増井の疑問にすぐに反応した。
「確かに、それらはすべて重要な観点だと思います。でも、今は可能性を広げてアイディアを出す段階です。ブレインストーミングというのは、アイディアを否定して精度を高めるのではなく、とにかくすべての発言を肯定して、数を出すのが大切なんです。増井さんもたくさんアイディアを出しましょう! 詳細はアイディアを出した後で詰めていきましょう。 この会社が新しい分野に踏み出すためには、まずは大胆な思考が求められるはずで、そのための新規事業コンテストだと思うんです。」
増井の心は迷いが消えていなかった。
「ブレインストーミングだかなんだか知らないけど、ただアイディアを出すだけでは、それが実現可能なものなのか、どの程度のリスクが伴うのかが見えてこないよ。実現の道筋が立たないアイディアなんて出しても意味ないんじゃないのか? 新規事業に必要なのは、可能性だけじゃなく実現の道筋も重要だと思うけど。」
噛み合わない二人のブレインストーミングセッションは、いくつかのアイディア自体は生み出されたものの、すべてがそのまま宙ぶらりんになってしまった。
それから二人は何度か会議を重ねたものの、迷走はさらに深まっていった。コンテストのエントリー締切まであと数日という逼迫した状況を迎える中で、増井と有田の間には微妙な緊張が生まれ始めていた。有田は引き続き熱心にアイディアを出し続けたが、増井はどれも現実的でないと感じていた。
増井は、自分が持っているデータ分析のスキルを使って、有田のアイディアの中で最も実現可能なものを探してみたりもしたが、その結果は否応なく現実の厳しさを突きつけてくる。増井の心は、いっそう否定的な感情へと変わっていった。
そんな迷走する有田と増井のもとへ、コーポレート戦略課長で同期の川島が現れた。

「難航していそうだな。新規事業なんて、意味がないと言っただろう? 数字を出すのは新規事業なんてよくわからんものじゃない。誇りある既存事業での大きな提案だ。俺が今年グローバルコネクト社に仕掛けている企画を聞かせてやろうか。」
迷走していた有田は、その言葉が胸に刺さりつつも、感情的に反発した。
「川島さん、新規事業に挑戦しないでどうやって会社は非連続的な成長するんですか? 私たちは新たな価値を生み出そうとしています。それは既存の事業では到底生み出せない価値ですよ!」
声を張り上げる有田の顔は赤くなり、目には怒りの火が燃えていた。
一方、川島のもっともな意見に思わず頷いてしまった増井は、自嘲の笑みを浮かべた。
「川島、君の意見は確かにそうだ。新規事業なんてリスクが伴うし、未知の領域へ踏み込むことは、不確実性も高い。会社もそれをやる個人も。万にひとつの成功だとすれば、好き好んでやるやつなんていなくて当然だよな。」
と同調すると、川島は増井の言葉を遮って重ねた。
「お前らが会議するホワイトボードを見たが、ヘルスケアに取り組むみたいだな。だいたい、なんでよりにもよって健康問題なんかに手を出すんだ? ヘルスケアサービスなんて、電子機器部品メーカーの富士山電機工業とはまったく関係ない事業領域じゃないか。病気や健康状態の悪い個人を相手にビジネスをするなんて、まったく現実味がないし意味がない。感覚が麻痺してるのか?」
その時だった。病気や健康状態の悪い個人、という言葉を聞いた時。自分自身でも認識できない、増井の心の奥深くで、突然何かが湧き上がり、そして自分でも意識しない勢いで、増井はつい言葉を発した。
「で、でも、川島。」
川島のコメントは、ヘルスケアのビジネスアイデアに対してだけでなく、増井自身と、彼の母の置かれた状況までも否定しているように感じられた。増井の心の奥深くで、何かが動いた。
「い、いっけん当社とは関係なさそうなヘルスケアサービスであっても、世界に深く悩んでいる人がいるのであれば、その解決を目指すことは、その人たちにとっても、当社にとっても新しい価値を生み出す可能性があるかもしれないじゃないか!」
思わず出た増井の声は、驚くほど大きかった。
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