
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
朝早い静かなオフィス。有田恭子と増井博之のそれぞれのデスクには、昨晩提出したプロジェクトの企画データとエナジードリンクの空き缶が乱雑に散らばっていた。エントリー締切後の空虚感がまだまだ二人の心を覆っていた。
時計の針が始業時間を過ぎると、オフィスは徐々に活気付いてきた。チームメイトや他部署の同僚たちが次々と出勤してきて、その日の既存事業の仕事が始まっていく。新規事業コンテストなんてなかったかのように、変わらない日々の業務が戻ってきた。そのオフィスの活気は、有田と増井の心を紛らわせ、ふたりをすぐに元の生活に戻していった。
思い返せば、悔しい気持ちは残っているものの、あれはあれでいい経験になったんじゃないか。少しの間だったけど、熱い気持ちになれた驚きもあった。有田も増井も、新規事業への想いは少しずつ風化していっていた。

それから、2週間ほどが経過した。
既に新規事業コンテストのことなど頭から離れかけていた有田恭子のデスクの内線電話が、突如として鳴り響いた。
彼女の同僚が電話に出ると、有田に電話をまわした。
「有田さん、新規事業コンテスト事務局からです」
「え、何? もしかして…」
その瞬間、増井とともに議論を白熱させたあの日々が脳裏に蘇ってきた。
電話の向こうからは、落ち着いた女性の声が流れてきた。
「有田さん、こちらは新規事業コンテスト事務局ですが、有田さんと増井さんチームのエントリーが一次審査を通過したことをお知らせするために電話させていただきました。」
「え? ウソ…」
有田は息を飲み、何も言葉が出なかった。自分たちのアイディアが通過したという現実が信じられなかったからだ。
電話を終え、しばし呆然と立ち尽くした後、有田はすかさずフロアを駆け抜けるように増井のデスクに向かった。
「増井さん、増井さん!」
息を切らしながら呼んだ。
「通過、通過しました!」
有田の声を聞いた増井は驚きの表情を浮かべ、一瞬彼女の言葉が理解できなかった。
「え、何?何が通過したんだ?」
増井が呆気にとられていると、有田は椅子に腰を落とし、早口で言葉を続けた。
「新規事業コンテストの一次審査を、わたしたちの案が通過したんですよ!」
その言葉を聞いた増井は、目を丸くした。
「え! 何で? すごい! でも、なんで?」
自分でも信じられないほどうわずった声だった。
その声のうわずりに有田は一瞬、驚いて増井を見返したが、すぐにその反応の意味が理解できた。そう、喜ぶべきなのか、それとも不安に思うべきなのか。二人の間には喜びと同時に疑念や不安が広がった。
増井は改めて言葉を重ねた。
「通過は嬉しい。でもなんでだろう。僕らの案、まだ全然形になってなかったよな?」
有田もそれに頷いた。
「そうですよね、私たちのアイディア、お世辞にも完成度が高かったとは思えないわ…」
二人の間には、一瞬の喜びを経て、その何倍もの疑念と不安が広がった。これから始まる二次審査、そしてその先のプレゼンテーションへの道のりは、まだ見ぬ長い道のりのように思えた。
「これから何が待っているんだろう…」
増井がつぶやくと、有田も頷いた。
「でも、何とかしないと。せっかく掴んだチャンスだから。」
力を込めて答えた有田に、増井は力強く握手の手を差し伸べた。
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