
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
西園寺先生の部屋を後にした有田と増井、そして本条の三人は近くの公園のベンチに並んで腰掛けていた。夕暮れの空をオレンジ色に染め、静かな住宅街に、子供たちの楽しげな声が響いている。
「西園寺先生のこと、何とかしてあげたいですね。」
有田が呟くと、増井は静かに頷いた。西園寺先生の言葉、そして老いと孤独に苦しむ彼女の姿は、今もなお痛々しく彼の胸を締め付けていた。
「でも、電子部品でできることなんてあるのかしら。たとえば、手が不自由になった人でももう一度ピアノが弾けるようになるグローブ型のデバイスができたりすれば…って、そんなことSFの世界じゃないんだから無理ですしね。」
有田の言葉に、増井は顔を上げた。
「もう一度ピアノを弾けるように…。そうか、いや、可能性はあるかもしれない!」
「増井さん?」
「実は昔、大学で音楽とテクノロジーの関係を研究している教授の授業を受けていたことがあってね。その時に、筋肉の動きを感知して指の動きを補助する特殊なグローブの開発について聞いたことがある。」
「筋肉の動きを感知するグローブ?」
「そう。もしその技術が実用化段階に入っていて、それを応用できれば、西園寺先生のように指の力が弱くなってしまった人でも、再びピアノを弾けるようになるかもしれない」

増井の言葉に、有田は目を輝かせた。
「それが本当だったら、素晴らしいことですね!でもそんな技術、本当に存在するの?」
「確証はない。でも、調べてみる価値はある」
増井は静かにそう言うと、スマートフォンを取り出し何かを検索し始めた。
「あった!」
数分後、増井は興奮した様子で画面を有田に見せた。そこには「筋電位センサー搭載グローブ」という製品が紹介されていた。
「これですね! これが使えれば…」
有田は、興奮を抑えきれない様子でまくし立てようとした。しかし、本条は冷静な表情で二人の言葉を遮った。
「ちょっと待って、二人とも。確かにそれは興味深い技術だと思う。でも少し冷静に考えてみましょう。」
「本条さん?」
「私たちが本当に目指すべきは、特定の技術を導入することではなく、顧客である西園寺先生の課題を解決すること。そのために、本当に必要なものは何か、もう一度原点に立ち返って考える必要があるわ。」
本条の言葉に、有田と増井はハッとした。技術的な可能性に目を奪われ、本当に大切なことを見失いかけていたということ。
「本条さん。おっしゃるとおりですね。技術ありきではなく、顧客課題ありきで考えなければ。」
増井は、深く反省したように呟いた。
「たしかにそうですね。西園寺先生の本当の願いは、再びピアノを弾けるようになることだけではないかもしれない。もしかしたら、誰かと一緒に音楽を奏でたい、昔の生徒たちと繋がりたい、そんな想いも心の奥底には抱えているのかもしれない。」
本条の言葉に、有田と増井は改めて顧客の心の声を聞くことの大切さを実感した。
「まずは、西園寺先生に改めてお話を伺いましょう。そして、先生の本当の想いを理解した上で、私たちに何ができるのか、一緒に考えていきましょう。」
本条の言葉は、穏やかだが力強かった。