
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
数日後、有田と増井は、再び西園寺先生のアパートを訪れていた。
「この間は、突然お邪魔してしまってすみませんでした」
有田がそう言うと、西園寺先生は優しい笑顔で答えた。
「いいえ、こちらこそ懐かしいお話が聞けて嬉しかったですわ。増井君がこんなに立派になって。」
西園寺先生は、少し照れたように、増井を見つめた。
「あの、西園寺先生」
増井は、西園寺先生の視線に少し戸惑いながら切り出した。
「実は私たち、今、新しい事業を立ち上げようとしていまして。その中で、先生の力をお借りできないかと思いまして。」
「私の力?」
西園寺先生は、怪訝そうな顔をした。
「あの、先生は、ピアノを… また弾きたいと思われますか?」
増井は、西園寺先生の表情を伺うように言葉を慎重に選んだ。その瞬間、西園寺先生の顔から笑顔が消えた。彼女は視線を落とし静かに自分の両手を眺めた。曲がった指、節々が太く変形している。
「ええ。もちろん。もう一度ピアノを。そう思わない日はありません。」
絞り出すような声だった。
「でも、こんな指になってしまっては、もう夢のまた夢だから、あまり考えないようにしているの。」
西園寺先生は、震える手でピアノの鍵盤カバーの上を撫でた。
「今はもう奏でることはできないけど、毎日、この子に触れることだけが、せめてもの慰めなの。」
その言葉に、増井は胸を締め付けられる思いがした。西園寺先生にとって、ピアノは単なる楽器ではなく、人生そのものだった。長年ピアニストを夢見て厳しい練習に耐え、音楽大学に進学。そして、愛するピアノを通じて子供たちに夢を繋いできた。しかし、指の変形という残酷な現実は彼女から生きがいを、そしてアイデンティティを奪い去ろうとしていた。
「何とか、先生にもう一度、あの音色を奏でてほしい。」
増井は、心の中で強くそう誓った。西園寺先生の悲痛な想いは、有田の胸にも響いていた。
「電子部品で、できることはないのかしら…」