
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
西園寺先生の痛ましい告白に重く悲しい空気が流れ、三人はしばらくの間言葉を見失っていた。静寂を破ったのは、本条だった。
「西園寺先生、お話、ありがとうございます。先生のように、ピアノを愛する気持ちが強くありながら、身体的な事情で夢を諦めざるを得ない方々が、世の中にはたくさんいらっしゃると思います。」
本条は、静かで温かい口調で、しかし言葉を選びながら慎重に続けた。
「先生は、もし、指先の細かい動きを再現できるような特別な装置があったとしたら。再びピアノを演奏したいと思われますか?」

その言葉に、西園寺先生は、ハッとしたように顔を上げた。
「特別な装置?」
「はい。例えば、指に装着することで脳からの信号を読み取り、本来の指の動きを再現できるような。そんな装置があったとしたら。」
本条が提案する未来図は、まだSFの世界の話のように思えた。しかし、西園寺先生の瞳には、再び、微かな光が灯り始めていた。
「もし、もしも、そんな夢のような装置があったとしたら…」
西園寺先生は、震える声で、再びピアノの鍵盤カバーに手を伸ばした。
「この子と、もう一度だけ、美しい音を奏でてみたい。」
その言葉は、長年抱え続けてきた彼女の心の奥底からの叫びだった。
その日の帰り道、有田と増井は本条を囲んで早足で駅へと向かっていた。
「本条さん。西園寺先生、本当にピアノを弾きたいと思ってるんですよ!」
有田は、興奮を抑えきれない様子でまくし立てた。増井も心が大きく動いていた。しかし、同時に強い懸念が頭をよぎっていた。
「そんな夢のような装置、本当に開発できるのだろうか…」
増井の言葉に、有田も、我に返ったように口をつぐんだ。
「確かに、脳波や筋電位を利用して身体の動きを補助する技術は、近年研究が進められている分野です。しかし、指先の繊細な動きを完全に再現できるほどの技術はまだ確立されていません。」
本条は、冷静に現状を分析した。
「それに、仮に開発できたとしても莫大なコストがかかるはず。とても、個人で買えるような価格にはならないでしょう。」
増井の言葉に、有田は再び、顔を曇らせた。
「そうですよね。いくら西園寺先生の、顧客の課題が根深くても、解決策が作り上げられないんじゃ。やっぱり、無理ですよね…」
本条は、そんな二人を見て静かに口を開いた。
「確かに、簡単な道のりではありません。しかし、不可能ではありません。これを出発点として、課題を捉え直して、解決策となる技術を探しまわって、それを続ければ、その先に何かの糸口が見えるかもしれません。」
「本条さん?」
「西園寺先生の想いは、私たちに解決すべき確かな課題テーマを与えてくれました。それは、単に電子部品と健康を組み合わせるということではなく、人間の夢、希望、そして、人生そのものを支える、新たな可能性を創造するという取り組みテーマなのかもしれないと思うんです。」
本条の言葉は、有田と増井の心に、再び熱い炎を灯した。困難は多い。しかし、それでも彼らは、立ち止まるわけにはいかないのだ。西園寺先生の願いは、彼らに大きな使命を与えつつあった。