
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「駄目だ。あと少しなのに」
増井は、パソコンの画面を睨みつけながら額に手を当てた。西園寺先生との再会から数日。増井と有田は二人三脚で、夢の装置の実現に向けた技術調査に没頭していた。
本条のアドバイスもあり、まずは既存技術の調査から始めたのだ。特許電子図書館のデータベースをくまなく検索し、関連する論文を読み漁る日々。大学や研究機関にも問い合わせ、最新の研究開発状況を聞き取り調査する事も欠かさなかった。結果、筋電位センサーや脳波計測技術など、身体の動きを感知し、外部機器を制御する技術については、近年、目覚ましい発展を遂げていることがわかってきた。
「神経系の動きを感知する技術は、医療分野でかなり進歩しているみたいね。義手や義足の制御に応用されている技術なんかは、参考になりそう。」
有田も持ち前の行動力で情報を集めていた。しかし、二人の前に立ちはだかる壁は想像以上に高かった。
必要な技術は、大きく分けて四つ。指の動きを検知するセンサー技術、脳波から演奏者の意図を読み取る技術、その意図を正確に指の動きへと変換する技術、そして、変換された情報を元に、指の動きをアシストするアクチュエーター技術だ。
このうち、最初のふたつは既存技術でカバーできそうだった。しかし、残りのふたつ、特に「演奏者の意図を正確に指の動きへと変換する技術」と「繊細な指の動きをアシストできる高精度の小型アクチュエーター技術」が見つからないのだ。
「最大の課題のひとつは、指の動きを繊細に再現することだ。ピアノ演奏に必要な、指先の微妙な力加減や、滑らかな動きを再現するには、既存のアクチュエータ技術ではサイズが大きすぎるか、精度の面で足りない。」
増井がそう呟くと、有田も顔を曇らせた。

「脳波解析の分野でも、演奏意図の解読はまだまだ発展途上みたい。現状では、単音の認識すら難しいみたい。」
集めた資料の山は日に日に高くなっていくが、肝心のふたつの技術要素が見つからない。焦燥感と無力感が、二人の心を蝕んでいく。
「それでも、諦めるわけにはいかない。」
増井は、デスクに置かれた、西園寺先生との写真に視線を向けた。写真の中の西園寺先生は、優しい笑顔で増井を見つめている。
「先生に、もう一度、あの美しい音色を奏でてほしい。」
増井の脳裏には、西園寺先生が奏でるショパンのノクターンの旋律が、優しく、そして切なく響いていた。希望の光は見えている。しかし、その光に到達するには、あと少し、あと少しの技術の進歩が必要だった。
「必ず、道を開くんだ。諦めるわけにはいかないんだ。」
増井は、決意を新たに再びパソコンに向き直った。希望の欠片を繋ぎ合わせるため、彼は、来る日も来る日も、技術の海を探し求める旅を続けていた。