
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「時間がない。このままでは…」
ギアーズのリーダー、荒川正志は、時計を睨みながら苛立ちを募らせていた。一次審査は通過したものの、開発中のスマートウォッチに搭載する「生体信号解析AI」の精度が目標に達していなかった。原因はデータ不足。機械学習には膨大なデータが必要だが、倫理的に収集可能なデータには限りがあった。
「既存のデータセットでは、精度が頭打ちだ。かといって、臨床試験を実施する時間はない。」
天才エンジニアと謳われる荒川ですら、この壁を乗り越えるのは困難だった。
焦燥感が募る中、彼の元に一本の電話がかかってきた。相手は、大学時代の先輩で、現在はデータ分析会社「ブラックボックス・データ」を経営する男、佐久間だった。

「ああ、佐久間先輩。実は…」
荒川は、現状に行き詰まり、わらにもすがる思いでAI開発に行き詰っている現状を佐久間に相談していた。
「なるほど。データ不足で困っているというわけか。実は、うちなら君の欲しいデータを提供できるかもしれない。」
佐久間の言葉に、荒川は息を呑んだ。「ブラックボックス・データ」は、表向きはマーケティングデータなどを扱う会社だが、裏では違法な手段で入手した個人情報も扱っているという噂があった。
「佐久間さん、それはまさか…」
「ああ、君の考えている通りだ。医療機関や製薬会社から、裏ルートで入手した生体データだ。もちろん、完全に違法な手段で入手したものではない。だが、表に出ればいろいろと面倒なことになる代物だ。」
佐久間の言葉は、荒川の倫理観を揺さぶるものだった。しかし同時に、彼の胸の高鳴りも抑えきれなかった。
「わかりました。完全に違法というわけではないんですよね。そのデータ、私に提供してください。」
迷いはあった。だが、ギアーズの勝利、そして、自らの野望のためには、手段を選んでいる余裕はなかった。
数日後。荒川の元に大容量のハードディスクが届いた。それは、個人情報保護法に違反する形で収集された、膨大な量の生体データだった。
「これで、勝てる」
罪悪感と高揚感が入り混じる中、荒川は、禁断のデータに手を伸ばした。彼の瞳には、冷酷な光が宿っていた。