
巻頭特集の締めに、ジャーナリスト・平岡乾氏の論考をお届けしたい。 日刊工業新聞社やNewsPicksにて企業経営やイノベーション創出に関わる数々の特集をリードしてきた平岡氏が、「両利きの経営」にまつわる誤解を解き、新規事業創出への道筋を示す。

平岡乾
経済・産業ジャーナリスト
東京工業大学大学院修了後、日刊工業新聞社に入社。群馬で中小企業取材の後、素材産業と経済産業省を担当。インダストリー4.0やTPPなどマクロ経済のほか、パナソニックなどの電機・機械企業を取材。2019年7月から5年間NewsPicks編集部に所属。 現在フリーランスで活動中。
ここ数年でビジネス界で広がった「両利きの経営」。
現在のコア(主力)事業に新規事業が引き込まれないように、既存事業の深掘りと新規事業の探索の「両利き」の経営を目指すモデルです。ただし、両利きの経営ほど誤解されている経営ワードもありません。実際、両利きの経営を実践しているつもりが、新規事業はなかなか生まれず、いつの間にか「永遠の探索」モードに陥っていないでしょうか。
今こそ知るべき両利きの経営の本質について、この分野の第一人者で『両利きの組織をつくる──大企業病を打破する「攻めと守りの経営」』の共著者でもある組織開発コンサルタントの加藤雅則さんの見識も踏まえて紹介します。
「両利き」より「両立」の経営
両利きの経営とは、既存のコア事業の持続的発展を目指す「深化」と、新規事業の創出を目指す「探索」の両輪を回すための実践型の経営モデルです。主にスタンフォード大学経営大学院のチャールズ・オライリー教授とハーバードビジネススクールのマイケル・タッシュマン教授によって構築されました。
一般には、「企業は深化活動に偏るので、探索活動もきちんとやりましょう」と説明されています。しかし、それだけでは両利きの経営のひとつのゴールである新規事業の創出は困難です。以下に主な誤解を2点挙げます。
第一に、かの有名な3Mやグーグルで実践していた「就業時間の15%(グーグルは20%)を自由研究に充ててもよい」のような話と混同されることがあります。両利きの経営で目指す新規事業とは、自社の既存事業を脅かすほどのインパクトのある事業を生み出すこと。ピーター・ドラッカーの言うところの「自らを陳腐化させよ」の「組織版」です。
そうした新規事業では、コア事業とは市場・顧客も販売・収益化モデルも異なり、それまでの成功体験は通用しません。したがって、探索の組織では、コア事業とは完全に行動様式が異なる組織である必要があります。
このようにして組織を分けつつも、既存事業の強みやリソース(技術や設備、顧客ネットワーク、社会からの認知・信頼)を新規事業にも生かさないとスタートアップに対する優位性が発揮できません。したがって、「分けて分けず」とばかりに、探索チームが必要に応じて既存事業からリソースを提供してもらえる体制を組む必要があります。

このように、両利きの経営とは「両利きの個人」ではなく、組織の話。異なる文化や矛盾に関する「両立の経営」の方が誤解を避けられるでしょう。
提唱者の一人、オライリー教授はこのように言います。「もし、あなたの双子が互いに人生観が完全に異なっていたとしても、どちらの子も等しく愛すること」。例えば、一方が有名大学から大企業に就職し、もう一人がアーティストを目指して大学を中退したとして、どちらの価値観も尊重することです。両利きの経営はこの組織版。深化に属する既存の事業部と、探索に属する新規事業チームが、お互い尊重される必要があります。
両立の経営は経営トップの理解があることはもちろん、深化と探索の間で組織文化は違えど、長期的に目指す方向は同じという長期の経営ビジョンが浸透していることも重要でしょう。オライリー教授と親交が長い加藤雅則さんに言わせると、「両利きの経営とは究極のダイバーシティ&インクルージョン経営」だそうです。
探索だけでは、事業は生まれない
第二の誤解は、新規事業創出が「探索」と十把一絡げにされている点にあります。ゆえに両利きの経営が「Let’s 探索」と一面だけ切り取られ、CVCやアクセラレータプログラムなどの「種まき」ばかり注目されるきらいがあります。
本来の目的は、その企業の次の柱となる新規事業を長期目線で育成することです。探索はそのための一つの手段でしかありません。実際、本来の両利きの経営のモデルは、新規事業に必要な①アイディエーション(着想) ②インキュベーション(仮説検証)③スケーリング(事業化投資)の3つのステージに分けられます。このうち①と②には、未知の可能性に対する探索活動が含まれるでしょう。
しかし、元々、新事業には「魔の川」「死の谷」「ダーウィンの海」といったステップごとに難所があることが知られているとおり、幾度にまたがる厳しいハードルを越える必要があります。特に事業化に至る手前の③スケーリングのステージに入ると、設備投資や人員拡大、時にはM&Aなどに多額の投資が必要になります。経営のリスクが一気に顕在化する場面です。
実際、両利きの経営の実践書『コーポレート・エクスプローラー──新規事業の探索と組織変革をリードし、「両利きの経営」を実現する4つの原則』では、最も注目されていない、最も重要で、最も難しい点が「スケーリング」と明言されています。以下に一文を紹介します。
活動当初の着想はトップも社員も楽しいと感じる。次の育成段階も投入りソースもさほど多くないし、コア事業とも無難な距離を保てるので、厳しい決断は迫られにくい。ただし、量産化ステージで経営リスクが急上昇すると、何かを犠牲にする決断を迫られる。(一部筆者が編集)
アイデア出しや仮説検証で奨励されていたはずの「失敗」が、スケーリングフェーズでは許されません。例えるなら、それまで使っていた木刀が真剣(本物の刀)に切り替わり、下手を打つと血が流れる、つまり、赤字として企業経営を脅かす可能性が浮上するのです。
探索の前に肝心なことがある
先述の書籍『コーポレート・エクスプローラー』によれば、「いざ事業化へ」の最終段階で、経営者が投資に躊躇してしまって十分な規模の投資に踏み切れないケースがあるとのことです。
こうした投資の逡巡が起きる事態を回避するためにやるべきことは、実は探索活動の前段階にあります。先述の加藤さんによると、経営者と新規事業担当者が、初期段階でどれだけ「握っているか(事前に合意を取っているか)」にかかっているそうです。
また加藤さんは、経営者が事前に「ハンティング・ゾーン(わが社はどこに張るのか)」を定めることが重要だと説いています。これは長期的な社会の変化や時代の趨勢をとらえつつ、その企業ならではの強みが生きる領域です。
つまり、未知の可能性の探索とはいえど、「なんでもあり」ではなく、自社の価値観や強みとはそぐわないなど「やらない領域」を定めることも時には有用でしょう。例えば、任天堂は自社が「玩具メーカー」という自己認識の下、中毒性のある「課金ガチャ」には安易に手を出しませんでした。
このように、最後のスケーリングの重要であるからこそ、ハンティング・ゾーンのような「最初」が肝心だということになります。
探索よりも、むしろ「冒険」
両利きの経営における新規事業創出は、探索よりも「冒険」と表現する方が誤解がないかもしれません。ファンタジー映画やゲームで例えると、主人公には「大魔王を倒す」「衰退した故郷を復興する」といった明確なミッションが課せられています。
企業なら、「10年後に今のコア事業は消滅するかもしれないから、必ず次の柱となる事業を作るんだ」といった壮大なミッションが、ハンティングゾーンに該当します。
また、もし大魔王を倒すのであれば、最高の仲間を迎え入れたり、伝説の武器を獲得したりするために探索の旅が必要になるでしょう。また、行く先々で想定外の試練に見舞われたり、真の敵が別に存在することが発覚したりします。これは、ビジネスにおけるピボットのような方針転換を迫られる場面でしょう。
そして、ゲームでも映画でも「ラスボス(最後に待ち受ける難敵)」が出てくる終盤こそが一番難しい場面です。まさにスケーリングに相当する箇所でしょう。
加藤さんはある企業の幹部から、「両利きの経営とは新しい船を造るようなものですね。新しい船を造り、今乗っている船から全員が乗り移る。そのくらい壮大なミッションに挑んでいる」と言われたことがあるとのこと。「探索よりも冒険」は、あながち極端なアナロジーでもなさそうです。

探索を担うべき「人」は誰か
最後に、探索活動を担うのにふさわしい人は誰かということも重要でしょう。それは「優秀」とされるエリートよりも、「変人」や「出る杭」と呼ばれる人です。コア事業ではいまいち評価が芳しくない出る杭に探索チームで思う存分腕を振るわせるためには、変人の理解者のサポートも必要です。
加藤さんによれば、変人を抜擢するだけの経営者の胆力と、本当のダイバーシティ・マネジメントが問われる場面だと言います。
ここで思い起こすのは、今も語り継がれる伝説の求人案内。100年以上前の南極探索案内の文章です。
至難の旅。僅かな報酬。極寒。暗黒の続く日々。絶えざる危険。生還の保証なし。ただし成功の暁には名誉と称賛を得る。
両利きの経営における探索チームというと、キラキラとした印象もあります。でも実際には、上記のような求人案内が必要かもしれません。
まとめます。両利きの経営とは、第一にスケーリングまでを内包した実践型の経営モデルです。第二に「大企業に入れば一生安泰」の時代はとうの昔に終わり、規模で劣るはずのスタートアップによって窮地に追いやられる時代に求められる経営モデルです。「Let’s 探索」よりもむしろ「生死をかけて新規事業創出という目的地に向かう探索チームを結成せよ」なのです。
両利きの経営の詳細はオライリー/タッシュマン両教授や加藤さんの解説書にゆだねるとして、新規事業の創出についてどこまでも「泥臭い」かつ「実践的」な指南という側面を垣間見ていただければ幸いです。
edit by Tomomi Tamura

Ambitions Vol.5
「ニッポンの新規事業」
ビジネスマガジンAmbitions vol.5は、一冊まるごと「新規事業」特集です。 イノベーターというと、起業家ばかり取り上げられてきました。 しかしこの10年ほどの間に、日本企業の中でもじわじわと、イノベーターが活躍する土壌ができてきていたのです。 巻頭では山口周氏をはじめ、ビジネスリーダー15組が登場。それぞれの経験や立場から、新規事業創出の要諦を語ります。 今回の主役は、企業内で新規事業を担う社内起業家(イントラプレナー)50人。企業内の知られざる新規事業や、その哲学を大特集します。 さらに「なぜ社内起業家は嫌われるのか?」など、新規事業をめぐる3つのトークを展開。 第二特集では、新規事業にまつわる5つの「問い」を紐解きます。 「企業内の新規事業からは、小粒なビジネスしか生まれないのか?」「日本企業からイノベーターが育たない。 人材・組織の課題は何か?」など、新規事業に関わる疑問を徹底解説します。 イノベーター必携の一冊。そろそろ新しいこと、してみませんか?