新聞社の信頼と中立性で起こせたムーブメント 会社を“使える”企業人を目指して

Ambitions編集部

今となっては広く知られた「ピンクリボン」。毎年10月には東京都庁やレインボーブリッジがピンク色に染まり、シンポジウムなどのイベントを開催。乳がんの早期発見・治療を啓発している。その国内における啓発活動の広がりを生んだのは、朝日新聞社に勤める中西知子氏の使命感だった。大企業が社会課題に取り組む契機の一つにもなった、ピンクリボンプロジェクトはいかにして生まれたのか。中西氏が取り組む社会課題解決支援とは。

中西知子

朝日新聞社

朝日新聞社イベント戦略室プロデューサー。1992年神戸大学卒業後、毎日新聞社入社。スポーツイベント運営に携わる。97年朝日新聞社入社。2002年ピンクリボンプロジェクト、09年ダイバーシティプロジェクトを立ち上げ、社内新規事業コンテストで提案したクラウドファンディング事業実現のため、14年に新規事業開発を担うメディアラボに異動、15年「A-port」をローンチ。16年がんとの共生社会を目指すネクストリボンプロジェクトをプロデュース。今はビジョン会議サポート事業、社会課題解決型キャンペーン支援事業などを手がける。

「女には無理」と言われ

もともと教師になるつもりだったんです。でも教育実習で現実に直面し、一旦社会人経験を積んでみたい……と思い、1992年に毎日新聞社へ入社することになりました。スポーツ事業部に配属され、びわ湖毎日マラソンを担当することに。当時、日本3大マラソンの一つとされていましたが、他大会と比べて好タイムが出にくく、有力選手が敬遠する傾向にあったんです。

当時のスポーツ界は圧倒的に男性社会。担当になりたての私が、出場をお願いするために実業団チームの監督を訪ねると、「女の来る場じゃない」「絶対に記録が出ない大会だ」とけんもほろろ。地元の陸上協会の人に「若い女が担当とは、馬鹿にしているのか」と言われたこともあります。

上司は「うちのエースを投入している」と私をかばってくれましたが、「女には無理」と言われると燃えるのが私の性格。陸上関係者との関係をじっくりと築きながら、世界最速と呼ばれていたスペインのM・フィス選手の招聘に成功。大会では見事、当時のシーズン世界最高記録を更新しました。ほかの選手も大会新や自己新を記録。「記録が出ないマラソン」のイメージを払拭できました。

街の景色を変えたピンクリボンフェスティバル

その後、朝日新聞社へ転職しましたが、あることをきっかけに会社と対立してしまい、孤立。辞めたほうが良いかもと悩む私に、社外の先輩が「いま辞めたら負け犬だ。会社に使われるのでなく、自分のやりたいことで会社の名前を“使える”ようになってから辞めなさい」と諭してくれたのです。

そこから私は開き直りました。個人用の名刺をつくり、積極的に異業種交流会に参加。キャリアを運命づける出会いがあったのもこの頃です。他業種の知人から日本の乳がんの現状を聞いて関心を持ち、ネットで見つけた乳がん患者会を訪問しました。そこではじめて、乳がん検診の重要さと啓発の必要性を実感。「メディアで発信してくれる、あなたのような人を待っていた」と言われたのです。使命感に駆られ、2002年に立ち上げたのが「ピンクリボンプロジェクト」でした。

当時、30人に1人(2021年推計で6.8人に1人※)の女性が乳がんと言われていたにも関わらず、検診を受けている人は少なく、早期発見の重要性を広める必要がありました。賛同企業を探すと「デリケートな問題で扱い方がわからない」「1社で活動すると企業PRに見られてしまう」などの声を聞きました。そこで、同じ課題を持つ約10社の担当者を集めて飲み会を開催。「業界の壁を越えて、一緒に活動していこう」という声があがりました。 ※ 出典:国立がん研究センターがん情報サービス「がん統計」(全国がん登録)、国立社会保障・人口問題研究所ホームページ(https://www.ipss.go.jp/

これをきっかけに、朝日新聞でメッセージ広告の掲載とシンポジウムを実施。その後、賛同企業と計10時間の会議を通してミッションを決めました。「あなたの笑顔のために、私たちは乳がんの早期発見、早期診断、早期治療の大切さを伝えます」。このミッションを掲げて社内に事務局を立ち上げ、ピンクリボンフェスティバル運営委員会を発足しました。

都庁やレインボーブリッジなどのライトアップに、街頭やインターネットでのキャンペーン。最終的には100社ほどの企業が協賛・支援し、大きなうねりとなって世の中へ浸透していきました。はじめは社内でも「がんというネガティブなテーマだと企業が賛同しない。絶対無理」と反対されましたが、応援してくれる人もいました。新聞社だからなのか、社会的意義のあることにはYESと言ってくれるんです。広告代理店を通さず各社と組織運営ができたのも、新聞社の中立性や信頼性を評価してもらえたからだと思います。

理想の社会を、自分たちでつくる

ピンクリボン事務局は、より検診率向上を目指した活動にするため日本対がん協会に移管。その後も、さまざまなプロジェクトを立ち上げてきました。考え方や目的の違う企業や人々が同じ課題意識のもとに集まり、目標達成するために重要なのは、ミッション・ビジョンを設定することだと思います。

私は今、これまでの経験をもとに「ビジョン会議サポート事業」「社会課題解決型キャンペーン支援事業」を展開しています。私のように社会課題をテーマにしたプロジェクトを他企業と連携して展開したい人や、ミッション・ビジョンを策定して組織やチームを活性化したい人の支援をしているのです。

ビジョン会議でいつも私は「どんな社会を目指したいですか?」と問いかけます。それが夢やまぼろしのままではなく、自分たちの手で仕事を通じて成し遂げることができれば、この上ない喜びなのではないでしょうか。世の中には解決するのが難しいさまざまな社会課題があります。多くの人を巻き込みビジネスとして成立させ、持続的な取り組みにすることで、解決への道が開けると思います。

私は自ら社会課題の解決法を模索しながら、同じ思いを持つ企業や人を支援し、ビジネスを後押ししたい。振り返ると、そのヒントを得てきたのはいつも社外の交流会活動や企業訪問でした。社内外を縦横無尽に行き来しながら、新聞社が持つ信頼と中立性を「使える」企業人になりたい。そんな立場から、多くの人々が抱える生きづらさを少しでも減らせたらと願っています。

Q. 大企業で見つけた「夢」は?

A. 社会課題解決を、事業推進の糧にしたい。走る人の心に火を灯し、ビジョンで企業やチームの軸をつくる手助けをしたい。

(2022年5月20日発売の『Ambitions Vol.01』より転載)

text by Sachiyo Oya / photographs by Yota Akamatsu / edit by Mao Takamura

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