
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。 ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
病院の白い壁は、まるで増井の心を映し出すかのように冷たく無機質だった。医師から告げられた母の容態は想像以上に深刻だった。意識は戻らず、呼吸も弱々しい。もはや時間の問題だと医師は静かに告げた。
増井は、ベッドに横たわる母の手を握りしめ、静かに語りかけた。
「お母さん聞こえますか? メロディーアシスト、製品化が決まりました。西園寺先生もとても喜んでくれました。もうすぐたくさんの人があの装置を使って音楽を奏でられるようになります。」
彼の言葉は、母の耳に届いているのだろうか。反応のない母の姿に、増井の胸は鉛を詰め込まれたように重く冷たくなった。
「お母さん、ごめん。俺は仕事ばかりに気を取られて、あなたに何もしてあげられなかった。」
増井の脳裏には、幼い頃の記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。ピアノを弾く母の横で一緒に歌を歌った日々。父が仕事で遅くまで帰らない夜は、母が子守唄代わりに、ショパンのノクターンを弾いてくれた。その優しい音色は、幼い増井の心を温かく包み込んでくれた。
しかし、父の事件以来、家からピアノの音が消えた。横領の疑いをかけられ、会社を追放された父。心労で倒れ、寝たきりになった母。増井は、音楽を楽しむ余裕もなく、ただ、現実の苦しみに耐えることしかできなかった。
「お母さん、俺は父の無念を晴らしたい。そして、メロディーアシストで世界中の人々に音楽を奏でる喜びを届けたい。それが俺の生きる意味なんだ。」
増井は、母の冷たくなった手を強く握りしめた。それはまるで母の想いを受け継ぐかのような、決意の握りだった。
その夜、静寂に包まれた病室で増井の母は静かに息を引き取った。まるで、ピアノの白鍵がゆっくりと沈んでいくように、静かで安らかな最期だった。
葬儀を終え、増井は一人、母の遺品を整理していた。古いアルバム、手紙、そして、小さなオルゴール。ひとつひとつの品物に触れるたびに、母の温もりが蘇ってくる。
アルバムを開くと、そこには笑顔の母と幼い頃の増井の姿があった。ピアノを弾く母、一緒に歌を歌う母、そして増井の頭を優しく撫でる母。
「お母さん、俺はこれからどうやって生きていけばいいんだろう。」
増井は、声を上げて泣いた。彼の涙は母の死を悼む悲しみだけでなく、これから始まる新たな人生への不安、そして母の愛を失った喪失感で溢れていた。アルバムの中に、一枚の手紙が挟まっていた。それは、母が増井に宛てて書いた手紙だった。
「博之へ。あなたが夢に向かって頑張っている姿を見るのが私の一番の喜びです。どうか諦めずに頑張ってね。私は、いつもあなたを見守っています。」
母の言葉は、増井の心に、深く、そして力強く響いた。それは、まるで母の魂が彼に語りかけているようだった。
「お母さん、ありがとう…」
増井は、涙を拭い手紙を胸に抱きしめた。彼は母の愛と、そして母の願いを受け継ぐことを決意したのだ。
「俺は、必ず、メロディーアシストで世界を変えてみせる。」
それは、増井自身の再生のための誓い。そして、母への永遠の愛の誓いだった。彼は、母の遺影に深く頭を下げ、静かに部屋を後にした。彼の背中は悲しみを乗り越え、新たな決意を胸に力強く歩みを進める男の姿だった。
夜空には、満月が静かに輝いていた。それはまるで、天国から見守る母の優しい眼差しのようだった。