
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
増井は、母親の入院という予期せぬ事態に動揺しながらもプロジェクトを諦めるわけにはいかなかった。しかし、開発チームのメンバーに母親の状況を説明すると、チームの合意として、しばらくの間は開発のペースを落とさざるを得ないと結論づけた。
「増井さん、お母様のことが心配です。無理しないでください。」
「増井さん。プロジェクトのことは私たちに任せてください。」
開発チームのメンバーたちは増井を心配し、励ました。しかし、増井は心の中で焦燥感に駆られていた。
(このままでは二次審査に間に合わない…)
彼は、黒田と飯島の陰謀を阻止するためにもプロジェクトを成功させる必要があった。
そんな中、五十嵐から新型アクチュエーターの試作品が完成したとの連絡が入った。
「増井さん、お待たせしました! ついに試作品が完成しました!」
五十嵐は、興奮した様子で増井に試作品を見せた。それは、小型で軽量。そして驚くほど滑らかに動く、美しいアクチュエーターだった。
「これはすごい…!」
増井は試作品を手に取り、その精巧な作りに感動した。
「さっそく動作テストをしてみましょう!」
五十嵐はそう言うと、試作品をピアノ演奏補助装置のプロトタイプに組み込んだ。
増井は、緊張しながら装置を装着しピアノの前に座った。そして、彼はゆっくりと鍵盤に指を置いた。
その瞬間、彼の指はまるで魔法にかかったかのように、滑らかに動き始めた。
「すごい…!」
増井は、自らの指の動きに驚きを隠せない。しかし、その喜びは長くは続かなかった。
試作品のアクチュエーターは、繊細な動きを再現することはできたが、長時間使用すると発熱し動作が不安定になるという問題を抱えていた。
「くそっ…!」
増井は歯ぎしりした。
「どうしたんですか? 増井さん」
有田が、心配そうに尋ねた。
「アクチュエーターがすぐに発熱してしまうんだ。これでは実用には耐えられない。」
増井は、落胆した様子でそう言った。
「そんな…!」
有田もまた失望を隠せない。
「あきらめるのは早いです。問題点は特定できました。改良すれば解決できるはずです。」
五十嵐は冷静にそう言った。
しかし、増井は焦燥感を募らせていた。彼は、母親の看病とプロジェクトの遅延という二重のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
(時間がない。二次審査まであとわずかしかない…)
その頃、鈴木彩音は増井から聞いた「ライフデータ・ソリューションズ」と、その社長である松永の名前が頭から離れなかった。
(ライフデータ・ソリューションズ、松永。一体、どんな会社なんだろう?)
彼女は、インターネットで会社名を検索してみた。ヘルスケアデータのプラットフォームを開発しているという情報以外詳しいことは分からなかった。
(直接、話を聞いてみるしかない)
鈴木は、思い切ってライフデータ・ソリューションズに電話をかけてみた。
「もしもし、ライフデータ・ソリューションズ様でしょうか? 富士山電機工業の鈴木と申しますが」
彼女は、営業担当者と名乗り新規事業のデータ分析に活用できるサービスがないかヒアリングしたいと申し出た。
数日後、鈴木はライフデータ・ソリューションズのオフィスを訪れていた。彼女は、担当者から同社のサービスについて説明を受けた。しかし、鈴木の関心は会社のサービスよりも増井の父親の事件と松永社長の関係にあった。
その後も鈴木は何度かライフデータ・ソリューションズを訪れ、様々な社員と面会した。そしてある日。彼女は、田中という飄々とした雰囲気のベテラン社員と話す機会を得た。田中はかつて富士山電機工業で働いており、増井の父親とも同期入社だったという。
「田中さん、富士山電機工業時代のこといろいろ教えてくださいよ!」
鈴木は、田中の興味を惹こうと明るく話しかけた。
「ん? 富士山の頃の話? なんで急にそんなこと」
田中は警戒しながらも、鈴木のしつこい質問攻めに根負けし、当時を振り返り始めた。
田中は、富士山電機工業時代、特に仕事ができるわけではなかった。しかし、社内の情報通として知られており、タバコ部屋や飲み会での情報収集に長けていた。
「あの頃の話かぁ。増井さんのことだろ? 増井さんは俺の同期でもあるんだけど、本当に仕事のできる人で。黒田の前任の専務だったんだけど、営業部長上がりで実績も人望もあって本当に人格者だった。でも、当時の黒田に目をつけられちゃってね…」
田中は懐かしそうに、そして少し寂しそうに当時の社内政治の様子を語り始めた。

「黒田は、増井さんを何としても排除したかったんだ。彼は自分の出世のためには手段を選ばない男だったからね。で、黒田は松永に目をつけたんだ。松永は増井さんの右腕的存在だったから」
「松永さんに?」
「そう。黒田は松永に近づき、巧妙な罠を仕掛けたんだ。まず、松永の仕事ぶりを褒めちぎり、将来を期待していると持ち上げながらそれとなく増井さんに関する不正の噂を耳打ちした。そして、松永が動揺し始めたのを見計らって、『君はまだ若い。これから家族も養っていかなくてはいけないだろう。もし、今回の件で、増井さんに不利な証言をしてくれれば君の昇進は確実だ。だが、もし口を噤んで増井さんの味方をするようなことがあれば、どうなるか、わかるだろうな?』と、暗に脅しをかけたんだよ。松永は、家族を守るために黒田の要求に従わざるを得なかったんだ」
田中は当時、黒田が松永に脅迫めいた指示を飛ばしていたことを、タバコ部屋での会話から偶然耳にしていたのだ。
「私はそれを知ってしまってね。黒田は私に口止め料として昇進を約束してくれたんだ。だから、私はそれからずっと黙っていたんだ…」
田中は、目を伏せながら、苦しそうにそう言った。
「でも、もう黒田は富士山電機工業を辞めたし、私ももうすぐ定年。引退が近い。あの時のことは、ずっと心に引っかかっていてね」
田中の言葉は、鈴木の心に深く響いた。
(増井さんの父親は、本当に、無実だったんだ)
鈴木は、田中の話を聞いて増井の父親が濡れ衣を着せられたことを確信した。そして、彼女はそのことを増井に伝えなければならないと思った。