
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
増井たちのチームのプレゼン直前。控室では緊張感が張り詰めていた。有田は最終確認のため資料を精査し、五十嵐はプロトタイプの動作確認に余念がない。しかし増井は一人、窓の外を眺めながら心ここにあらずといった様子だった。
鈴木が控室に入ってきたのはそんな時だった。彼女は、少し息を切らしながら増井に近づくと、小さな声で言った。
「増井さん、お話があります。二人きりで。」
増井は、鈴木の深刻な表情に何か尋常ではないことが起こったことを察した。
「わかった。」
増井は鈴木と共に控室を出て、人気のない廊下へと向かった。
「プレゼン直前だぞ。一体、どうしたんだ? 鈴木…」
増井は、心配そうに尋ねた。
鈴木は、深呼吸をしてからゆっくりと話し始めた。
「増井さん、私、ライフデータ・ソリューションズの田中さんという方からお話を伺いました。」
「田中?」
増井は、その名前を聞いて、一瞬、誰のことか分からなかった。
「田中さんは、かつて富士山電機工業で増井さんのお父様と、同期入社だったそうです。」
鈴木の言葉によって、増井の脳裏に過去の記憶が蘇ってきた。
「田中…。ああ、そういえば」
増井は、かすかな記憶をたどりながらそう呟いた。
「田中さんからお聞きしたお話によると、増井さんのお父様は、無実だったそうです!」
鈴木は少し間を置いてから、そう言った。増井は、鈴木の言葉を聞いて体が硬直する。
彼は、震える声で尋ねた。
「どういう、ことだ…?」
鈴木は、田中から聞いた話を、詳しく増井に伝えた。黒田が自らの出世のために増井の父親を陥れ、松永を脅迫して偽の証言をさせたこと。田中は、その事実を知りながらも黒田から口止め料として昇進を約束され、ずっと沈黙を守ってきたこと。
「松永は、家族を守るために黒田の要求に従った、そうです…」
鈴木は目を伏せながらそう言った。増井は、鈴木の話を聞いて激しい怒りと深い悲しみに襲われた。
(父さん、あなたは、無実だったんだ…!)
彼は、長年心に抱えてきた父の無実を信じる気持ちが溢れ出てきた。そして、黒田と松永への憎しみが爆発した。
(黒田、松永、絶対に許さない!)
増井の復讐心の炎は燃えあがった。
「増井さん、大丈夫ですか…?」
鈴木は、増井の異変に気づき心配そうに尋ねた。
「ああ、大丈夫だ。ありがとう、鈴木…」
増井は、無理やり笑顔を作りそう言った。しかし、彼の心は大きく揺れていた。
(これからどうすれば…?)
彼は、プレゼンテーションのことなど頭から消えてしまっていた。
「増井さん、時間ですよ!」
有田が、廊下から増井を呼びに来た。
「わかった、今行く。」

増井は深呼吸をして、気持ちを落ち着かせようとした。しかし、彼の心はまだ激しく動揺していた。
プレゼン台に立った増井は、顔面蒼白だった。彼の様子を見た審査員たちはざわめき始めた。
「増井君、大丈夫か?」
石井事務局長が心配そうに尋ねた。
「は、はい。大丈夫です…」
増井は、なんとかそう答えた。しかし、彼の声は震えていた。
増井は、プレゼンテーション資料に目を向けた。しかし、文字が頭に入ってこない。
(父さん、森本、そして、母さん…)
彼の脳裏には、大切な人々の顔が次々と浮かんでくる。
(俺は、何を、やっているんだ…?)
彼は、自問自答した。そして、彼は、決意した。
(俺は、諦めない…!)
彼は、深呼吸をして、顔を上げた。
「えー、大変失礼いたしました。改めてここからお話させてください。私たちが開発するのは、指の不自由な方々が再び自由に指を動かし、表現する喜びを取り戻せるピアノ演奏補助装置『メロディーアシスト』です!」
増井は、震える声で、プレゼンを開始した。

彼の言葉は、荒川や飯島と比較すれば力強さに欠けていたかもしれない。しかし、そこには、強い意志と、熱い想いが込められていた。増井は、西園寺先生との出会いを語り、ピアノを弾きたいという彼女の切なる願いを実現するためにプロジェクトに情熱を注いできたことを心を込めて語った。
そして、プロトタイプを装着した西園寺先生の演奏動画を披露した。
画面に映し出された西園寺先生は、涙を浮かべながら美しいピアノの音色を奏でていた。その映像は、審査員たちの心を強く揺さぶった。
会場からは、感嘆の声が漏れた。
しかし、質疑応答に入ると、石井事務局長から厳しい質問が飛んだ。
「増井さん、君たちのプロジェクトは確かに感動的だ。しかしビジネスとして本当に成立するのかね? この装置は高価になるだろう。果たして採算が取れるのか? それに、北山製作所は長年経営難に苦しんでいる。本当に彼らに量産を任せても大丈夫なのかね?」
石井の質問は核心を突いていた。
「それに加えて、現在の試作段階では発熱の問題も指摘されていたはずだが、その点はクリアになったのかね? ピアノ演奏の補助装置という用途だけでは、市場規模も限られてくるだろう。より大きな事業に育てていくためには、他の用途への展開も視野に入れる必要があるのではないか?」
増井は、石井の質問に、答えることができなかった。彼の心はまだ、父の無実を知った衝撃と黒田と松永への憎しみでいっぱいで、質疑に大して切れ味よく返答できるほど頭がまわっていなかった。
「増井さん、 しっかりしてください!」
有田が、増井の肩を叩きそう耳元でそうささやいた。
増井は、ハッとした。彼は、今、何をすべきなのかを、思い出した。
「石井さん、おっしゃる通りです。私たちはまだ多くの課題を抱えています。しかし、私たちは、諦めません…!」
増井は、力強く、そう宣言した。彼の瞳には、再び強い光が宿っていた。それは、父の無念を晴らすため。そして、自らの夢を実現するための、強い意志の光だった。