
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
二次審査を終えた増井たちは、それぞれ重い足取りでオフィスへと戻っていった。残された役員会議室では、石井が一人、窓の外を眺めながら考え込んでいた。彼のデスクの上には、各チームの評価シートが置かれている。どのチームも一長一短で、簡単に評価を下せるものばかりではなかった。特に、増井たちのチームは、石井にとって複雑な思いを抱かせる存在だった。
「彼らの熱意は本物だ。そして、あの装置には、確かに人の心を動かす力がある。」
石井は、西園寺先生の演奏を思い出しながら、そう呟いた。
しかし、石井は新規事業部門を率いる責任者としての冷静な視点も忘れていなかった。
「だが、ビジネスとして成功させるためには、越えなければならない壁がいくつもある。」
量産化、コスト、発熱問題、そして、用途の限定性。石井は、増井たちのチームが抱える課題を、ひとつひとつ、指折り数えた。
「それに、あの若者が、今、抱えているであろう、個人的な問題も…」
石井は、増井の父親の事件、そして黒田と飯島の陰謀について、薄々感づいていた。二次審査のプレゼンテーションで増井が見せた動揺は、彼の心に暗い影を落としていた。
「彼らをこのままにしておくわけにはいかない。」
石井は、心の中でそう決意した。彼は長年、富士山電機工業で技術者として働いてきた。その間、多くの才能ある若者たちが会社の古い体質や上司たちの保身によって潰されていく姿を目の当たりにしてきた。そして、石井自身もまたその犠牲者の一人だった。石井は、かつて画期的な技術を開発し会社に大きな利益をもたらした。しかしその功績は上司に横取りされ、彼は閑職へと追いやられた。
「後輩たちには、同じ想いを繰り返させない。」
石井は、静かにそう呟いた。彼の瞳には静かな決意が宿っていた。
その頃、本条は自らのオフィスで増井たちのプレゼンテーションの録画映像を繰り返し見ていた。西園寺先生の演奏、増井の言葉、そして、審査員たちの反応。彼女は、そのすべてを注意深く観察していた。
「増井さん。私は、あなたを助けたい。」

本条は、そう呟いた。彼女の心は、増井への強い共感と、何かを守りたいという不思議な感情で満たされていた。しかし、同時に彼女は、ある葛藤を抱えていた。
それは、富士山電機工業の競合会社からのヘッドハンティングの話だった。
彼女は、若くして成功を収めたビジネスウーマンだ。彼女の能力は業界で高く評価されており、多くの企業から誘いを受けていた。そしてその中には、富士山電機工業の最大のライバル企業、「シンギュラリティ・エレクトロニクス」の名前もあった。
シンギュラリティ・エレクトロニクスは、富士山電機工業よりも規模が大きく技術力も高かった。彼らは本条に破格の条件を提示し、ヘッドハンティングしようとしていた。本条は、その誘いに心が揺れていた。シンギュラリティ・エレクトロニクスに移籍すれば、彼女はより大きな舞台で自らの能力を発揮することができる。しかし彼女は、増井たちのことを放っておくことができなかった。
(私は、どうすれば…?)