
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「シンギュラリティ・エレクトロニクス、か。」
本条は、高級ホテルのラウンジで目の前に座る男の言葉を反芻していた。男の名は、江藤。シンギュラリティ・エレクトロニクスの新規事業開発部門の責任者だ。彼は、数週間前から本条にヘッドハンティングの話を持ちかけていた。
「本条さん、あなたのような優秀な人材はうちの会社にこそ必要です。我々シンギュラリティ・エレクトロニクスは、世界を変えるようなイノベーションを起こそうとしています。あなたも、その一員になりませんか?」
江藤は、熱心に本条を口説いた。提示された条件は破格だった。年収は現在の2倍。役職は執行役員待遇。そして、自由に使える開発予算も桁違いだった。
本条は、江藤の言葉に心が揺れていた。シンギュラリティ・エレクトロニクスに移籍すれば、彼女はより大きな舞台で自らの能力を発揮することができる。
しかし彼女の心は、増井たちのプロジェクトに強く惹かれていた。彼らの熱い情熱、そして西園寺先生のピアノを弾きたいという願いを実現しようとするその純粋な思いに、彼女は心を動かされていた。
「江藤さん、お気持ちは大変嬉しく思います。しかし、もう少しお待ちいただくことはできませんか。私にはまだここでやらなければならないことがあるんです。」
本条は、江藤にそう告げた。
「本条さん、よく考えてみてください。これはあなたのビジネス人生を大きく飛躍させるチャンスです!」
江藤はそう言うと、名刺をテーブルに置きラウンジを出て行った。
本条は、一人残され、自問自答した。
(私はどうすれば…?)

一方、増井は、病院のベッドで眠る母親の顔を見つめていた。彼女の容態はまだ安定していなかった。
「お母さんごめん、僕、今はそばにいてあげられない。」
増井は、心の中でそう呟いた。
(俺は一体、どうすれば…?)
増井は、自問自答した。その瞬間、彼の携帯電話が鳴った。
「増井さん、石井です。」

電話の相手は、石井事務局長だった。
「二次審査の結果ですが、君たちのチームは、条件付きで、通過となりました。」
石井の言葉に、増井は驚きを隠せない。
「条件付き、ですか…?」
「はい。君たちのプロジェクトは、確かに可能性を秘めている。しかしビジネスとして成功させるためには越えなければならない壁がいくつもある。その点を審査員たちは、強く懸念しています。」
石井は、冷静に説明した。
「わかりました。ありがとうございます、石井さん。」
増井は、そう答えた。
通過した。しかし、彼の心は、重かった。