第56話:共犯の芽【100話で上場するビジネス小説】

YO & ASO

これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。

知財部門の扉を開けた瞬間、川島は小笠原の視線を感じた。部屋は静かで窓の外の喧騒が嘘のように静まり返っている。小笠原は、書類の山に埋もれたデスクから顔を上げると川島に手招きした。

「川島課長、お待たせしました。こちらへどうぞ。」

小笠原は淡々とした口調で言った。彼は川島を応接用の小さなテーブルへと案内した。

「グローバルコネクトとの契約書を拝見しましたが、この特許技術の無償提供について少し確認させてください。」

小笠原は、契約書のあるページを開きながら事務的な口調で言った。それは、川島が黒崎と密約を交わした軍事転用可能な技術に関する項目だった。

「ああ、これは先方の強い要望でですね。」

川島は、言葉を選びながら答えた。しかし、用意していた説明は小笠原の冷静な視線の前で薄っぺらなものに感じられた。

「この技術は、他社からも注目されている重要なものです。無償提供とした根拠資料と上層部への稟議書の控えを見せていただけますでしょうか。」

小笠原は淡々とそう言った。

「え、ええっと、稟議については…」

川島は言葉を詰まらせた。小笠原の表情は変わらないが、その静かな口調は川島の心に重く圧し掛かってきた。

「この技術の提供は、今後の知財戦略にも関わる重要な案件です。社内規定では、当然、本社の承認と関連部署への情報共有が必須となります。また、この技術は軍事転用も可能な技術であることはご認識ですよね? 関係当局への申請も必要だと思いますが、その履歴を提出してください。念のため確認ですが、手続きは問題なく行われていますよね?」

小笠原の言葉は、静かだが川島の心に深く突き刺さった。

「も、もちろんです! ええ、きちんと、手続きは…」

川島は、額にじっとりと冷や汗が滲むのを感じた。

「でしたら、問題ありません。念のため確認させていただきました。お手数ですが関連資料を後日改めて提出してください。」

小笠原はそう言うと、再び書類へと視線を落とした。

その日の夕方、川島は焦燥感に駆られながらバーのカウンターに座っていた。

「くそっ、小笠原め、うまく隠したと思っていたのに、あいつ…!」

彼は、ウィスキーを呷りながらそう呟いた。

(どうすればいいんだ…? 上層部にバレたら…)

彼の頭の中は混乱していた。密約がバレればキャリアは終わりだ。グローバルコネクトとの契約も白紙に戻ってしまうかもしれない。

彼は、孤独と恐怖に苛まれていた。

(誰かに相談、いや、誰にも相談できない)

数日後、川島は有田とエレベーターで偶然一緒になった。彼女は二次審査を通過したものの条件付き合格となったことでどこか浮かない表情をしていた。

「有田、二次審査、通過おめでとう。ただ、通過とはいえ少し厳しい評価だったようだな。」

川島は、無理をして余裕を見せながら、有田に声をかけた。

「ありがとうございます、川島さん。そうなんです。通過はしたんですが、今後は正直、かなり厳しいです。特に、市場規模の小ささについて指摘を受けてしまって。」

有田は、ため息交じりにそう言った。二次審査では、「ピアノ演奏補助装置という用途だけでは、市場は限定的。富士山電機工業として取り組む意義を示すためには、より大きな市場への展開が必要」という指摘を受けていたのだ。

「新規事業であればニッチな市場を狙うのも戦略のひとつかもしれないが、前から俺が言ってるとおり、富士山電機工業のような大企業が取り組むべきは既存事業の大きな業務提携。俺が成功させたグローバルコネクトの案件のようなものこそが経営陣から求められているのさ。君たちの事業も、そういう大きな提携を視野にいれて動いてみては…」

有田に向けて話をする中で、川島の頭の中である考えが閃いた。

(そうだ、この手があるかもしれない。こいつらを利用しよう…!)

川島は、増井たちが開発しているピアノ演奏補助装置に目をつけた。

(増井のプロジェクトを、グローバルコネクトに売り込むんだ。彼らが興味を示せば、あの特許技術を応用した新たな製品開発の提案ができる。グローバルコネクトは医療分野にも進出を狙っているという噂だ。うまくいけば、あの特許技術の無償提供は、『将来的な共同開発に向けた先行投資』という名目で正当化できるし、社内のプロセスは特区化されている新規事業部門との間での不手際ということで着地させればいい…! それに、増井のプロジェクトをグローバルコネクトに売却できれば、さらに大きな功績をあげられる…)

川島は、悪だくみを思いつき、薄ら笑いを浮かべた。

「でも有田、実は、その大きな提携の文脈で、俺は改めて君たちプロジェクトには注目しているんだ。後日、詳しく話をできないか? 実は、医療分野への進出を考えている、あのグローバルコネクトに君たちのプロジェクトを紹介できるかもしれないんだ。」

川島は、優しい笑みを浮かべながら、そう言った。しかし、その瞳の奥には狡猾な光が宿っていた。有田は、川島の言葉にまんまと希望の光を感じてしまった。

(グローバルコネクトに紹介…? それはすごい…! うまくまとめれば大きな市場へのアクセスが可能になるかもしれない!)

彼女は、川島の真意を知らずに、彼の申し出を受け入れた。

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