
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
増井は石井に連れられて、元素材開発部の部長、藤堂光一の自宅を訪れていた。手入れの行き届いた静かな佇まいの家屋だ。
「よくいらっしゃいました、石井さん。増井さん。」

藤堂は温かい笑顔で増井を迎え入れた。70代半ばという年齢を感じさせない凛とした老紳士だ。縁側へと続く広縁には手入れの行き届いた小さな日本庭園が広がり、静寂の中に水の流れる音が心地よく響いている。
「石井君から君たちの話を聞いています。若い者が熱意を持って新しいことに挑戦している姿は見ていて気持ちがいいものだ。私にできることがあれば喜んで協力させてもらおう。」
藤堂は穏やかな口調でそう言った。
増井は、持参した資料を広げながら、プロジェクトの概要と現在抱えている発熱問題について説明した。
「なるほど。小型化と高出力化を追求した結果、発熱の問題に直面したわけですね。しかしこれは決して珍しい問題ではありません。むしろ、技術革新に伴う必然的な課題と言えるでしょう。」
藤堂は静かに頷きながら増井の説明に耳を傾けた。
藤堂は、かつて石井と共に富士山電機工業の素材開発部門を牽引してきた人物だった。石井が開発した画期的な新素材を、藤堂がその類まれなる経験と知識で実用化へと導き、会社に大きな利益をもたらしたこともあった。しかし、二人を待ち受けていたのは栄光ではなく挫折だった。新素材の開発成功を妬んだ当時の開発本部長が二人の功績を横取りし、石井は閑職へと追いやられ、藤堂は早期退職を迫られたのだ。しかも、その新素材は開発本部長の手によって存在ごと闇に葬られてしまった。
「当時は石井君も、私も、随分と苦労したよな。」
藤堂は、遠い目をしながら、そう呟いた。
(私は会社を辞めてしまったが、石井君はそれでも富士山電機工業に残って頑張っている。彼にはきっと、やり遂げたいことがあるのだろう。)
藤堂は、石井が新規事業コンテストの事務局長を引き受けた理由を、そう推測していた。
「増井さん、石井君は会社の古い体質を変えたいと思っている。彼は、君たちのプロジェクトにその希望を託しているのかもしれない。」
藤堂の言葉に、増井はハッとした。石井が二次審査のプレゼンテーションで自分たちに厳しい言葉を投げかけながらも、どこか期待を込めた眼差しを見せていたことを思い出した。隣に座る石井は、真剣な眼差しで藤堂と増井をだまって見つめていた。
「私は、長年素材開発に携わってきました。その経験から言えることは、どんなに優れた技術もそれを支える素材がなければその真価を発揮することはできないということです。」
藤堂はそう言うと、少し間を置いて静かに続けた。
「実は、私が会社を辞める直前です。ある冷却素材の開発に着手していました。石井君が開発した新素材をベースに、さらに熱伝導率と放熱性を高めた画期的な素材です。しかし、私たちが失脚したことで、そのプロジェクトも凍結されてしまい、日の目を見ることはありませんでした。」
藤堂は、少し寂しそうにそう言った。
「そうでしたね。あの素材は素晴らしい特性を秘めていました。もし完成していたらと、今でも悔やまれます。」
石井が、当時を振り返りながら呟くと、藤堂が言葉を重ねた。

「そう。完成目前だっただけに、残念でなりませんでした。しかし、だからこそ私は諦めきれなかったんです。実は、石井君。本社でも知る人がほとんどいないのだけれど、想いを共にしてくれる富士山電機工業の一部の研究者たちと一緒に、涙ぐましい少額の研究予算をつないで、私たちは今日まであの研究を続けてきているんです。」
「え…!?」
石井は衝撃を受けた表情で言葉を飲み込んだ。
「石井君、覚えているかね? 当時、私がよく使っていたR&Dセンター奥の第3ラボを。」
「第3ラボ? あそこは、確か」
石井の言葉が途切れる。第3ラボは、現在は使われておらず立ち入り禁止になっているはずだった。
「ええ。あのラボの中に、現段階で到達した素材と、すべての技術資料が眠っています。」
藤堂はそう言うと、目を細めた。
「もしかしたら、その素材がきみたちのプロジェクトの役にたつかもしれない。私たちは、こんな日がくることを信じて、今日まで研究をつないできていたんです。今日は訪ねてくれてありがとう。後日、君たちに詳細な場所と、アクセスに必要な情報を伝えましょう。」