第92話:増井の想い【100話で上場するビジネス小説】

YO & ASO

これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。

黒田の訃報は、まるで嵐が過ぎ去った後の静けさのように、メロディーライフのオフィスを重苦しい沈黙で満たしていた。増井は、窓の外に広がる鉛色の空を眺めながら、深い思考の迷宮に囚われていた。

「黒田がいなくなった今、一体どうなるんだろう…」

有田の不安げな呟きが、張り詰めた空気を震わせた。鈴木と森本も、不安そうな表情で増井を見つめている。五十嵐は静かに眉根を寄せ事態の推移を見守っていた。

「私が、ヘルスケアデータ・イノベーション社と連絡を取り、今後の対応について協議してきました。」

本条の言葉に、全員の視線が彼に集中した。本条は、数日間にわたる交渉の疲れを滲ませながらも、落ち着いた口調で語り始めた。

「黒田氏の突然の訃報は、ヘルスケアデータ・イノベーション社にとっても、大きな痛手だったようです。後継者争いも水面下で始まっているようで、社内は混乱しているとのことでした。」

本条は、交渉の難航を予想させる状況を説明した。

「しかし、彼らはメロディーアシストへの出資については、非常に前向きな姿勢を示しています。黒田氏の個人的な思惑はともかく、メロディーアシストの技術とグローバルコネクトとの提携の可能性は、彼らにとって魅力的なビジネスチャンスであることは間違いない。むしろ、黒田氏のような強引なやり方ではなく、より健全な形で資本業務提携を結べる可能性も出てきました。」

本条の言葉に、わずかながら希望の光が差し込んだ。黒田という巨大な影が消えたことで、メロディーアシストの未来に新たな道が開けようとしていたのだ。

「よかった、本当に…」

有田は、安堵の息を吐き出した。しかし、増井の表情は依然として硬いままだった。

「増井さん。」

森本は彼の隣に寄り添い、そっと手を握った。彼女の瞳は涙で潤んでいた。

「黒田さんがいなくなった今、もう何も恐れることはありません。一緒に、メロディーアシストを、完成させましょう…!」

森本の言葉は、増井の心の奥底に小さな波紋を広げた。

「増井君、君が社長としてメロディーライフを率いてほしい。会社としても、君たちのMBOを全面的に支援する。」

石井の言葉は、増井の心にさらに大きな波紋を広げた。しかし、増井の心はまだ迷いの中にいた。

「俺は、黒田を許せない。あいつは、俺の父さんを会社から追い出した張本人だ…」

増井の声は、怒りと憎しみに震えていた。

「たとえ黒田がいなくなったとしても、俺はあいつの金で、メロディーアシストを作りたくない…!」

彼の言葉は、爆発するような感情を伴って、オフィスに響き渡った。

「増井さん、わかります。あなたの気持ち。でも…」

有田は、涙をこらえながら増井の目を見つめた。

「私たちは、あなたと一緒に、メロディーアシストを、世界に届けたいんです…!」

彼女の言葉は、増井の心に直接響いた。

「増井さん、思い出してください!西園寺先生の、あの笑顔を…」

鈴木は、西園寺先生がメロディーアシストを装着してピアノを弾いた時の、感動的な瞬間を思い出させた。

「先生は、私たちに希望を与えてくださった。私たちは、その希望を繋いでいかなければ…!」

鈴木の言葉は、増井の心に、温かい光を灯した。

「増井君、君のお父様は、きっと、君がメロディーアシストを完成させることを喜んでくれるはずだ。」

石井の言葉は、増井の心を、強く揺さぶった。彼は、亡き父の顔を思い浮かべた。

(父さん、俺は…)

「それに、増井さん。私、増井さんと一緒にメロディーアシストを完成させたい…!」

森本の言葉は、増井の心をさらに強く揺さぶった。彼は、森本の顔をじっと見つめた。彼女の瞳には、増井への強い想いが溢れていた。その瞳は、かつての増井自身の瞳と重なった。何もかも諦めかけていたあの頃。ただ毎日を無為に過ごすだけの空虚な日々。窓際でデータ分析ばかりさせられ、同僚からは「あいつは終わった」と陰口を叩かれていた。母親の介護、父の汚名、自身の将来への不安。心は重く、鉛のように沈んでいた。そんな彼を、このプロジェクトが、そして、この仲間たちが変えてくれた。

初めて西園寺先生と再会した日。ピアノを弾けなくなった先生の悲しみ、それでも諦めきれない情熱に触れた時、増井の心の奥底に何かが芽生えた。それは、忘れていた情熱、誰かの役に立ちたいという純粋な想いだった。

有田の明るい笑顔と決して諦めない強い意志。鈴木の純粋な心と持ち前のデータ分析能力。五十嵐の卓越した技術力と熱い情熱。そして、森本の優しさと彼への揺るぎない信頼。彼らは、増井にとって単なる同僚ではなく、かけがえのない仲間となっていた。そして、西園寺先生は彼らにとって希望の象徴だった。

諦めかけていた人生に再び光が灯った。増井は、このプロジェクトに自らのすべてを賭けていた。それは、単なる新規事業の成功ではなく彼自身の再生のための戦いだった。

「ああ…っ…!」

こらえきれずに、熱いものが込み上げてきた。増井の頬を熱い涙が伝う。それは、悲しみの涙ではなく喜びの涙。そして、感謝の涙だった。

「わかった、みんな。俺は、メロディーライフの社長を引き受けよう!」

増井の言葉は、静かだったが力強い決意に満ちていた。彼の瞳には新たな光が宿っていた。それは、過去との決別、そして未来への希望の光だった。

チームメンバーたちは、増井の言葉に歓喜の声を上げた。

「増井さん…!」

「やったー!!!」

「ありがとうございます!」

彼らは互いに抱き合い、喜びを分かち合った。その笑顔は希望に満ち溢れ、まぶしいほどに輝いていた。

夕暮れの空は燃えるような赤色に染まり、彼らの新たな船出を祝福しているようだった。メロディーアシストは、今、再生の旋律を奏でながら希望に満ちた未来へと、力強く歩みを進めようとしていた。

#新規事業

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