起業家に限らず、ビジネスパーソンにも求められつつある「アントレプレナーシップ」。その教育の最前線では、どのような研究や取り組みが行われているのだろうか。日本で初めて「アントレプレナーシップ学部」を創設した武蔵野大学の現役実務家教員や、実際に起業に携わる学生たちから、その可能性を探っていく。 今回は、LINEヤフー株式会社の企業内大学「LINEヤフーアカデミア」でも学長を務める、武蔵野大学アントレプレナーシップ学部の伊藤羊一学部長に、学部設立から現在に至るまでの軌跡、そして今後の展望について話を聞いた。
起業家精神は教えられない。しかし、育てることはできる
──アントレプレナーシップ学部とはどのような学部なのでしょうか?
伊藤 文字通り、アントレプレナーシップを育む学部です。私たちはアントレプレナーシップを「高い志と倫理観に基づき、失敗を恐れずに踏み出し、新たな価値を見出し、創造していくマインド」と定義しています。
起業するかどうかは前提ではありません。新たな価値を生み出していくために失敗を恐れずに踏み出していく、そしてそのベースに高い志と倫理観があると考えています。そのため、アントレプレナーシップを単なる起業家精神とは捉えていません。何より、自分の人生でやりたいことを形にし、挑戦していくことを目指しています。
──確かに、アントレプレナーシップを単に「起業家精神」と訳すのは、意味を正しく捉えておらず、誤訳のように感じました。起業以外の選択肢をとるのはアントレプレナーシップとは言えないと誤解されてしまいそうです。
伊藤 誤訳のように感じる一方で、アメリカでも「Creating a new company」がアントレプレナーシップとされることが多く、同様な誤解を与えているのだと思います。私たちは自分のやりたいことである「Why(なぜやりたいか)」と「What(なにをやりたいか)」が重要だと考えています。この「Why」を深く追求すると、結果として起業するという「How(方法)」に行き着くことが多いのだと思います。
アントレプレナーシップ学部には、アーティストになりたいという学生やアカデミアの世界に進みたい学生もいるわけです。「Why」を深く追求することで「How」にたどり着くときに、僕はそれぞれの道があっていいと思っています。自分のキャリアを自ら創る。学生には「Lead The Self」の精神で自分自身の人生を生きてほしいと思います。これは、LINEヤフーアカデミアの学長としても伝え続けていることです。
僕が最近よく引用するのは、パーソナルコンピュータの父、アラン・ケイの“The best way to predict the future is to invent it.” (未来は予測するものでなく創るもの)という言葉です。つまり、僕ら一人ひとりが何を考え、何をつくりたいのかが重要なのです。
学生たちには、未来は私たち自身でつくっていくものだと伝えています。人材紹介大手のリクルートでは、上司が部下に「君はどうしたいの?」と意志を問う文化があると言いますが、それが日本中で足りていないのだと思います。
大学教育を通じて、日本を再び成長させる
伊藤 いわゆる「失われた30年」を過ごすなかで、アントレプレナーシップの必要性を感じました。一因として1990年のバブル崩壊がありますが、日本はその後1995年まではアメリカと同じペースで経済成長していました。つまり、失われた30年はバブル崩壊だけが要因だったわけではないのです。
大きな要因として考えているのが、1995年の「Windows 95」の登場です(インターネット元年)。ここからアメリカではテックジャイアントが台頭するようになりましたが、一方の日本ではそのような企業を生み出すマインドをもつ人が圧倒的に少なかった。私はここに、日本とアメリカの差があったのだと思っています。
このマインドによる問題を解決したいと思い、これまでLINEヤフーアカデミアで学長として対話を重ねてきました。そしてあるときから、より若年層に対して教育すべきだと考えるようになりました。
伊藤 2019年2月、著名な起業家や政治家、大企業役員、教育関係者など100名ほどが集まるカンファレンスを、ヤフー(当時)が開催しました。そのカンファレンスに武蔵野大学附属千代田高等学院の日野田直彦校長が参加しており、武蔵野大学の西本照真学長を紹介してくれたのです。西本学長とは、お会いするなり意気投合。同じ年の8月に食事をご一緒した際に「学部をつくってみませんか?」と。「伊藤さんのような人を育ててほしい」「学部名も好きに決めてください」というお話をいただきました。
そこで、大学教育を通じて日本を再び成長させる挑戦をするのもいいなと思い、学部創設を決意しました。教育は結果が出るまでに時間がかかりますが、人々へ直に力を与えられる点で、最も効果的です。教育が変われば、日本が変わると信じています。
──失われた30年を経て、日本はどうなっていくとお考えですか?
伊藤 日本では、新しいものを作ろうとすると全力で排除されてしまいます。大企業、メディア、政治が既得権益を守るために新しい勢力を排除し、イノベーションが生まれない状況がありました。そして、今ではドイツに名目GDPで抜かれ、インドも迫っているという状況ですが、僕は悲観していません。
日本は戦後、焼け野原になったところから立ち直ったわけです。これからイノベーションを生む人々が、危機感をもって狼煙を上げていくのではないでしょうか。ある意味、失われた30年は必要だったのかもしれません。日本人は大きな困難を受けて、団結し立ち上がっていくように思っています。
日本の学生が、海外で活躍できる基盤づくりに挑む
──学部を立ち上げて2年が経過し、見えてきた現状について教えてください。
伊藤 正直なところ、僕の想定を超える成果が出ています。アントレプレナーシップ学部の特徴として、授業を通じての起業、現役実務家による教員、初年度の寮生活などの取り組みがあります。
設立当初は、現役実務家でも授業が成立するのか、毎週ゲスト講師を招くことができるか、そして寮制度が上手く機能するかなどいろいろなことがわからない状態でしたが、実際には上手く進めることができています。
またアントレプレナーシップ学部では、大学1年から同級生全員が寮で生活して仲間になっていくため、学生がグループワークなどの際、すぐにグループを組んで話し合いを始めるといった成果につながっています。個々の情熱が伝播するため、どの学生もコミュニケーション能力が高く、自分の思いを大切にする意識を持っていると感じます。
学部では、教員やゲストからの刺激(インプット)を受け、学生自身が考え、話し合いを繰り返す中でアントレプレナーシップを育て、実際に行動に移してもらうことを大切にしています。そのような意図から、プレゼンテーションやレポートを通じて学生が主体的に話す機会を多く設け、成長を促しています。学部では座学はほとんどなく、期末テストもありません。
ただ、学生間には盛り上がりのレベルに差があることも事実です。もやもやしている学生や周りが行動をしていく中で焦りを感じている学生もいます。この差を埋めることが今後の課題です。学部としては1on1(一対一で話すこと)をとても大切にしていて、僕も学生と頻繁に1on1を行い、一人ひとりの才能と情熱を解き放つことに注力しています。学生間の差も、そこで埋めていければと考えています。
──今後の展望をお聞かせください。
伊藤 優れた教育コンテンツをつくることができていると確信していますので、まずはそれを継続していきます。
その次に、社会とのつながりを強くしていきます。具体的には、高校、大学、そして社会をシームレスにつなげていきたいと考えています。そのため、僕を含む教員が企業とも接点を持ち、関係を強化しています。アントレプレナーシップ学部から社会へ人材を送り出すことはもちろん、社会人が学部の精神を学び、ともに事業を生み出す取り組みもたくさん進めていきたいです。
三つ目は海外進出です。私たちは、東京都が募集した「大学発スタートアップ創出支援事業」の参画大学に選ばれました。2023年から24年にかけて、EMC生に限らず、都内大学に所属する学生、または都内在住の大学生を対象としたグローバルアントレプレナーの育成に取り組みます。
例えばシンガポールを拠点にして、インドネシアやフィリピン、インドへの進出を図る計画があります。NUS(National University of Singapore)やインド工科大学などと提携し、プロジェクトに参加する大学生が現地でピッチを行ったり、現地スタートアップの視察やインターンシップを経験したりしています。また、海外の大学やスタートアップの人材を積極的に受け入れます。
これらの経験を通じて、グローバルに活躍できるアントレプレナーの育成に努めます。
text by Hiroki Yanagida / edit by Tomoro Kato / photographs & Illustration by Musashino University Faculty of Entrepreneurship