大企業が目指すは『王道のJ-POP』 みんなと、ひとりのために

Ambitions編集部

世の中に新たなものを生み出すことは容易ではない。綿密な準備や仕組み、工夫が必要だ。神原一光氏は、日本放送協会(以下、NHK)で新たなコンセプトの番組を世に送り続けてきた。『おやすみ日本 眠いいね!』『平成ネット史(仮)』『令和ネット論』などを制作してきた神原氏。視聴者の心が動くきっかけとなるような番組を提供したいという思いからコンテンツを作り続けている。その裏には新たな価値を生むための努力と工夫、そしてテレビの可能性を信じ抜く思いがあった。

神原一光

NHK(日本放送協会)

1980年生まれ。早稲田大学在学中に学内スポーツプロジェクト「Waseda Will Win」を立ち上げ。卒業後、新卒でNHK入局。ディレクターとして、静岡局、制作局でキャリアを積み『NHKスペシャル』も制作。『おやすみ日本 眠いいね!』『天才てれびくん』シリーズなどの番組や東京オリンピック・パラリンピックのプロジェクトを経て、現在『令和ネット論』チーフ・プロデューサー。著書多数。

テニス全国優勝の僕がディレクターになった理由

僕の夢はプロのテニスプレーヤーでした。早稲田大学時代は、学生日本一になったこともあります。しかし、テニスを続けるうちにプロの厳しさを感じました。プ口は海外ツアーを転戦します。学生でトップクラスだとしても、世界を舞台に戦うのは容易ではありません。一方、大好きなスポーツを「伝える」仕事なら、同じように情熱を傾けられるのではと考えました。そこで体育会に所属しながら、スポーツを伝える「メディア」を立ち上げたのです。

スポーツで早稲田を盛り上げたいという思いの下に仲間が集まり、Webやフリーペーパーで情報発信を始めました。当時は副代表として活動の方向性を決めながら、自分でも記事を書いていました。

そうした活動が評価されたのか、新卒でNHKに入局し静岡局に配属されました。ところがいざ働き始めると、企画が半年近く通らなかった。他の新人ディレクターより遅れていました。プロとしての取材力が圧倒的に足りなかったのです。

先輩から学んだ取材の極意「Q&Q」

当時、上司や先輩からよく言われたのは「取材はQ&Aじゃない。Q&Qだ」でした。初めは戸惑いましたが、あるニュース中継をきっかけにその言葉の意味がわかりました。

入局1年目の2002年、サッカーW杯が日本で開催された時のことです。予選リーグを戦った日本代表が合宿地に帰る姿を、JR掛川駅から生中継する仕事を任されました。生中継はタイミングが命です。わずか1分ほどしかニュースの枠を割けない中、選手が来る瞬間を撮らなくてはいけません。各社の取材陣はJR広報担当から列車を教えてもらっていました。

しかし、駅の時刻表には、列車の発車時刻しか書いておらず、到着時刻の記載はないんです。つまり、手元の情報だけでは中継の正確なタイミングを割り出すことができません。中継の前に選手が通り過ぎてしまったら大変なことです。そこで、広報担当者を追いかけて列車の到着時刻を聞き出しました。その結果、日本代表の到着の瞬間を生中継できたのはNHKだけ。質問に対する答えだけでなく、さらに質問を重ねる「Q&Q」によってちょっとしたスクープが生まれたのです。

思いつきを形に 震災から生まれた「優しい番組」

駅の時刻表では到着時刻がわからないと知っていたのは、幼い頃から鉄道が好きだったからです。僕はこの経験から「関係ないように見える知識や情報が、仕事に結びつくことがある」と学びました。そして日々気づいたこと、ひらめいたことを手帳に書き留めるようになりました。これを「ネタ帳」として、番組を企画するときの道標にしています。

その後東京の制作局に異動し、新しい番組を企画する機会に恵まれました。その時に活用したのがネタ帳です。企画を作る際、突拍子もないアイデアは視聴者に受け入れられにくいし、上司を説得することも難しい。そこで、ネタ帳のアイデアをもとに「例えば、AとBを組み合わせたような番組ならどうか」と具体的なイメージを上司に伝えました。すると上司も想像しやすくなり、その結果、視聴者の皆さまにも受け入れてもらえる番組を生み出すことができました。

僕が仲間と企画した番組のひとつに、『おやすみ日本 眠いいね!』があります。企画のきっかけは東日本大震災。テレビが連日被害のニュースを伝える中、NHKとして何かできないかと考えました。その時、震災の影響で眠れない人たちが全国にいると知ったのです。それなら、テレビを見ているうちに心が落ち着き、安心して眠りにつける番組を作れないかと思いつきました。

眠くなるスタジオ作りや視聴者の巻き込み方などを考える時にも「ネタ帳」を活用しました。その結果、視聴者が眠くなったら「眠いいね!」ボタンを押し、その数が一定数貯まると番組も終わるという、ありそうでなかった新しい生放送番組ができたのです。

大企業の仕事は「皆さま」と「ひとり」に向き合うこと

NHKは公共メディアですので、日本全国の「皆さま」が視聴者です。でも「皆さま」とは誰なのでしょうか。「ひとりひとり」とは少し違う。誰かの心に刺さる番組を作らないと世間を巻き込めませんが、その起点となるのは誰なのか。

この難しさは多くの大企業に共通しているものだと思います。最近、大企業で新たな価値を生み出すことは「王道のJ-POP」を作るようなものではないかと思っています。「みんな」と「ひとり」のために。大勢を相手にしつつ、誰かひとりの心を動かすという難しさを「楽しい」と思って挑み続けることが、大企業ならではの仕事だと思います。

大きな組織は、世の中からの信用、そして期待の積み重ねの上に成り立つと感じています。その環境で新たな価値を生み出すことが、僕の働きがいです。まず自分の視野を徹底的に広げ、「ネタ帳」に書き込み、新たな視座を作るヒントをためていく。NHK、そしてテレビには積み上げたヒントを活かす可能性がまだまだ残されています。そこに、賭けていきたい。それが僕の目指す姿です。

Q. 大企業で見つけた「夢」は?

A. 「NHK」と聞いて「知らない」という人はほとんどいらっしゃらない。それだけ知ってもらえている。その信頼や期待に応え続ける仕事を築いていく。それがNHKで見つけた「夢」ですね。

(2022年5月20日発売の『Ambitions Vol.01』より転載)

text by Mao Takamura / photographs by Yota Akamatsu

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