
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「増井さんっ、ちょっ、ちょっと良いですか?」
翌日の昼休み。森本は、増井のデスクへとよろめく足取りで近づいた。普段の明るい彼女からは想像もつかないほどにやつれた表情。目の下にはクマができ、声はか細く震えていた。増井は、そんな森本の異変に気づき、心配そうに顔を上げた。
「森本、どうしたんだ? 顔色が悪いぞ。何かあったのか?」
「あ、あの、その…」
森本は、言葉を詰まらせながら、バッグからくしゃくしゃに折り畳まれた資料を取り出した。それは、昨夜、飯島から押し付けられたデータ分析の資料だった。
「これ、ちょっと見ていただけませんか…?」
震える手で差し出された資料を増井は受け取った。そこに書かれていた内容と、森本の尋常ではない様子から増井はすぐに状況を察した。
「これは、飯島さんから頼まれた仕事か?」
増井の言葉に、森本はうなずくのが精一杯だった。彼女は、必死に涙をこらえようとしていた。
「無理に決まってる。こんな量のデータ分析を、今夜までにまとめろなんて…」
増井は、資料に目を通しながら、静かに言った。彼の言葉は、森本の心を少しだけ軽くした。

「すみません。こんなこと、増井さんに頼むなんて。ライバルチームなことも理解してます。でも、でも、他に頼れる人がいなくて…」
森本は、ついに涙声になってしまった。彼女は、増井の袖を掴み、必死に訴えた。
「飯島さんは、いつも、こうなんです。自分の思い通りにならないことがあると、すぐに怒鳴り散らして、そして、いつも、私が、その尻拭いをさせられるんです…」
「田中さんは…? 彼に相談してみたらどうだ?」
増井の言葉に、森本は、首を横に振った。
「田中さんは、ビジネスの専門家としては優秀なのかもしれません。でも、田中さんには、飯島さんの恐怖政治を止めることなんてできません。むしろ、見て見ぬふりをしてるんだと思います…」
森本の言葉は、静かだったが、そこには飯島への恐怖と田中への失望が、色濃く滲んでいた。
「増井さん、お願いです。どうか、私を助けてください…」
森本は、増井の腕にすがり付くようにして、懇願した。その姿は、まさに藁にもすがる思いだった。
増井は、そんな森本の姿を見て、心を痛めた。そして、彼女の置かれた状況と、分析内容から伺えた開発テーマへの深い共感から、彼女の力になろうと決意してしまうのだった。