
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「わかった。森本、その仕事、俺が手伝おう」
増井の言葉に、森本は顔を上げた。驚きと安堵が入り混じったような、複雑な表情で。
「本当ですか!? 増井さん、ありがとうございます!」
森本は、再び涙をこぼした。その様子を見ていた有田は、驚きと怒りを隠せずに切り込んだ。
「ちょっと増井さん! 何を言ってるんですか!? なんで他のチームの仕事を、それもこんな無理な依頼を引き受けるのよ!」
「有田、落ち着け。森本の状況も見てみろ。」
「状況がどうであれ、私たちは私たちのプロジェクトに集中すべきよ! 締め切りだって迫ってるのに、他のチームのことまで考えてる余裕なんてないわ!」

有田の言葉は、正しい。しかし、増井の心は決まっていた。
「悪い、有田。だけど、これは俺がやらなきゃいけないことなんだ。」
「どういうことですか? 一体、森本の何が…」
有田は、増井の真意を測りかねていた。増井は、静かにだが、しっかりと自分の気持ちを語り始めた。
「森本の話を聞いて、放っておけなくなった。それに…」
増井は、少し間を置いてから、続けた。
「実は、森本が今、取り組んでいるテーマ、俺の母の病気と関係があるんだ。」
森本の担当していた調査は、ネットワーカーズが企画を進める産業用ロボットの事業展開の中で、認知症患者の徘徊防止をテーマにしたデバイスの大量生産を行う顧客候補であるメーカー企業に関するものだった。増井の母もまた、認知症の症状が進行しており、彼は、他人事とは思えなかったのだ。
「もしそのシステムが実現すれば、俺の母のような患者を、苦しみから解放できるかもしれない。ライバルチームかもしれないけど、俺はネットワーカーズにはこのプランを進めて欲しいと思っている。」
増井の言葉は、静かだが、そこには熱い想いが込められていた。有田は、彼の言葉の重さに言葉をつぐんだ。
「それに、森本を見ていると、かつての自分を思い出すんだ。誰にも頼れず、一人で抱え込んで。結局、俺はあの時、誰の助けも得られなかった。だから…」
増井の脳裏には、営業成績が低迷し、周りの目が冷たくなっていく中で、誰にも相談できず、一人で苦しんでいた頃の自分の姿が蘇っていた。そして同時に、助けを求めることもできず、ただ静かに苦しんでいるであろう、母の顔が浮かんだ。
「今度は、俺が、誰かを助けたいんだ。」
増井の決意は、固かった。有田は、増井の瞳の奥に宿る強い意志を感じ取り、それ以上反対することはできなかった。
「増井さん。」
有田は、複雑な表情で増井を見つめた。そこには、怒り、心配、そして、僅かながら、尊敬の念が込められていた。