
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「だから御社のモーションセンサーは、工場の過酷な環境でも安定した動作が可能なんですね。」
増井は、興味深そうに、目の前の男の説明に聞き入っていた。
森本に協力を頼まれたいくつかの調査の中で、増井は、郊外にある工業団地を訪れていた。彼の目の前にいるのは「クロスロード・テクノロジー」というベンチャー企業の社長、五十嵐圭だった。クロスロード・テクノロジーは、最新のナノテクノロジーを応用した、高感度センサーの開発で注目を集めている企業だった。森本は、ネットワーカーズの開発する産業用ロボットの制御システムに、彼らのセンサー技術が応用できるのではないかと考え、増井に調査を依頼したのだった。

「ええ。高温・多湿、粉塵の舞う環境でも、正確に動作するように設計されています。特に、この新型センサーは…」
五十嵐は、自信満々に説明を続ける。彼は、自社の主力製品であるモーションセンサーについて、熱弁を振るっていた。

「本日はありがとうございました。おかげさまで、御社のセンサー技術について、よく理解することができました。」
増井は、五十嵐と握手を交わしながらそう言った。森本から協力を頼まれた調査は、これでほぼ完了だ。
「いえいえ、こちらこそ、富士山電機工業さんからわざわざ足を運んでいただけるなんて光栄でした。ありがとうございました。何かご不明な点などございましたら、お気軽にお問い合わせください。」
五十嵐は、笑顔で応じた。
「そうだ、増井さん、まだお時間ありますか? もしよろしければ、せっかくなので私たちの工場を見学していきませんか?」
五十嵐の誘いに乗って、増井は帰路につく前に工場内を見学させてもらうことにした。最先端の設備が並ぶ工場内を、五十嵐の説明を受けながら、興味深そうに見て回る。
「こちらは、当社の主力製品であるモーションセンサーの製造ラインです。最新鋭の…」
五十嵐は、熱心に説明を続ける。元来、生産技術に興味のあった増井には知的好奇心がくすぐられる楽しい時間になっていた。そんな中で、増井は、相づちを打ちながら辺りを見回して見学を続けた。そして工場見学も終盤を迎える頃、工場の片隅に置かれた、埃をかぶった段ボール箱がなぜだか気になった。

「五十嵐さん、あちらの箱は?」
増井が指差す先を見ると、五十嵐は、少し顔を曇らせた。
「ああ、あれですか。ご覧になりますか? 実は…」
五十嵐は、ため息交じりに、段ボール箱のひとつを開けた。すると、中に入っていたのは、指先に装着するタイプの小型で軽量なセンサーデバイスだった。
「これは、指先のわずかな動きを検知するセンサーなんですが、全く売れなくて。お荷物になっている代物ですよ。」
五十嵐は、自嘲気味に笑った。
「指先のわずかな動き、ですか?」
「ええ。5年前、私はこのセンサーに夢を賭けていたんです。寝たきりの母が、少しでも自分の意思で動かせるものがあれば。そう思って開発を始めました。指先さえ動けば、意思疎通もでき、もっと色々なことができるはずだと…」
五十嵐の目は、遠い日の情熱を思い出すかのように、一瞬だけ輝いた。
「このセンサーを使えば、指が不自由な方でも、パソコンを操作したり、楽器を演奏したり、あるいは、ロボットアームを動かして、遠く離れた人に物を渡したり、抱きしめたりすることだって夢じゃなかった。でも。」
再び、五十嵐の表情は、深い失望に覆われる。
「世の中は、そんなに甘いもんじゃなかったんです。完全に需要を読み違えました。このセンサーは技術面では確かに画期的でした。しかし、あまりに高価で、用途が限られ、実用化には多くの課題が残り。結局、日の目を見ることなく、お蔵入りになってしまったんです。」
五十嵐の言葉は、重く、増井の胸に響いた。それは、技術革新の光と影、そして、夢破れた男の、哀しいまでの現実だった。
しかし、増井にとって、それは、希望の光に橋をかける、大きな可能性に見えた。
増井は、震える手で、そのデバイスを握りしめた。
「これだ、これです。これかもしれない! 五十嵐さん、これこそまさに、私たちが探し求めていた技術かもしれません!」
増井の脳裏に、西園寺先生のピアノを弾きたいという切なる願いが、鮮やかに蘇ってきた。
増井が、クロスロード・テクノロジーを訪れたのは、あくまでも森本への協力のためだった。しかし、運命のいたずらか、増井はそこで自らのプロジェクトに必要不可欠な、希望の光を見つけてしまったのだ。しかもそれは、クロスロード・テクノロジーにとっては、見向きもされていない「お荷物」な技術だった。