
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「増井、調子はどうだ? 新規事業の方は順調か?」
増井のデスクに、同期入社の川島が、いつもの自信たっぷりな様子で近づいてきた。
「ああ、川島か。まあ、何とかやってるよ。」
新規事業コンテストの一次審査を通過して以来、社内では、各チームの動向に注目が集まっていた。増井は、川島の視線がデスクの上にある新規事業の資料の一角に注がれていることに気づいた。
「そうか。俺の方は、新規の業務提携の話がとんでもなく忙しい。毎日が綱渡りだ。だが、この提携が決まれば来期の売上目標達成は確実、いや、大きく超えるだろうな。」
川島はそう言うと、手帳に書き込まれたびっしりのスケジュールを指でなぞった。その目は、確かに成功に向けて燃えているようにも見えた。しかし増井は、その奥底に微かな疲労の色を感じ取らずにはいられなかった。
「大変だな、川島。無理をするなよ。」
増井は、かつて自らが心身を壊しかけた経験から、思わずそう言葉をかけてしまった。
「ああ、大丈夫だ。俺たちは、結果を出さなきゃいけない立場だからな。夢を追いかける余裕なんてない。」
川島はそう言うと、乾いた笑い声をあげた。その瞬間。増井は、彼の瞳の奥に影のようなものがよぎった気がした。ほんの一瞬のことだったが、増井の胸に言いようのない不安をかき立てた。
「たまには、休むことも必要だぞ。」
増井はそれだけ言うと、自分の仕事に戻った。川島は、少しだけ複雑そうな表情を浮かべていたが、すぐにいつもの自信に満ちた顔に戻ると、自分のデスクへと帰っていった。

「今の川島さん。何か、無理してるみたいに見えたけど…」
有田が、心配そうに言った。
「ああ。気のせいだといいが。」
増井は、自身の胸騒ぎを振り払うように目の前の資料に向き直った。しかし、彼の脳裏からは川島の沈んだ瞳と無理に作り出した笑顔が離れようとしなかった。それは、まるで巨大な歯車がきしむような、不吉な予兆のように増井の心に暗い影を落とした。