
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「増井さん、ちょっとこれ見てください!」
開発チームのオフィス。増井たちのチームを手伝うようになった、データ分析課の同僚である鈴木彩音が、興奮した面持ちで増井のデスクに駆け寄ってきた。彼女の視線の先にあるモニターには、無数のコードとデータが並んで表示されている。
「これは?」
増井が尋ねると、彩音が答えた。
「クロスロード・テクノロジーから提供してもらったセンサーのデータなんですが、分析してみた結果、予想以上の精度で指の動きを検知できることがわかりました!」
鈴木の言葉に、増井は目を見張った。クロスロード・テクノロジーの五十嵐が開発した指先センサーは、当初の予想をはるかに上回る性能を秘めていたのだ。
「すごい!これはすごいぞ、鈴木!」
増井は、モニターに表示されたデータを見ながら興奮を隠せなかった。
「この精度で動きを検知できるんなら、もしかしたら演奏意図を把握するAIという脳波技術は必要ないかもしれない。」
興奮する増井に、五十嵐は言葉を連ねた。
「開発を再開してみて驚きました。5年前と比較して、現在のAI技術の発展は隔世の感があります。凄まじいレベルに到達した現代のAIアルゴリズムを適用したことで、繊細な動き把握が可能になりそうです。公開されているAIライブラリを基盤とした開発でも、脳波を読み取るまでもなく、演奏者の意図をグローブの動きに変換できるレベルに到達できる可能性が出てきました!」

五十嵐もまた、開発チームの一員としてプロジェクトに情熱を燃やしていた。かつて自身の夢を託した技術が、今、新たな形で輝きを取り戻そうとしている。
「五十嵐さん、がんばりましょう!必ず、西園寺先生に、最高のプレゼントを贈りましょう!」
増井たちのチームは、日を追うごとに結束を強めていた。それは、単に新規事業を成功させたいという野心や、出世競争に勝ちたいという打算を超えた、もっと大きな目標に向かって突き動かされているようだった。
一方、その頃。
「何だと!? あいつら、そこまで…」
川島は、オフィスで耳にした報告に驚きと怒りを隠せずにいた。彼が耳にした噂では、増井たちのチームが、社外のベンチャー企業の協力を得て驚くべきスピードで開発を進めていると囁かれていた。
「まさか、あいつらがここまでやるとは…」
川島の脳裏に、同期である増井のこれまで見せたことのない真剣な眼差しが蘇ってきた。
(あいつ、本気なんだ…)
川島は、初めて増井をライバルとして意識し始めた。それは同時に、彼自身の心に、これまで感じたことのない焦りと不安を植え付けることになった。

川島はこれまで、自らの野心と計算に基づいて行動してきた。しかし、増井たちのチームの純粋な情熱と揺るぎない信念を胸に困難な課題に挑戦している姿は、川島の価値観を根底から揺さぶるものだった。
「俺の、俺のやり方が間違っているはずがない!」
川島は、静かに、しかし確実に燃え上がる焦燥感に駆り立てられるように、ある決断を下そうとしていた。それは、彼自身が後戻りできない道を歩み始めることを意味していた。