
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「増井さん、あの…」
開発チームのオフィス。森本は、増井に声をかけようと何度もためらっていた。飯島から増井たちのプロジェクトを潰せと命じられて以来、彼女の心は罪悪感と葛藤で引き裂かれていた。
(こんなこと、したくない。でも…)
森本は、飯島の恐怖政治を誰よりも恐れていた。もし彼女の命令に背けば自分はどうなってしまうのか。想像するだけで体が震えるようだった。
増井への罪悪感は日に日に大きくなる一方で、彼に対する気持ちは、クロスロード・テクノロジー社の調査の件をはじめ、無理難題を押し付けた分析の仕事を手伝ってくれたことをきっかけに、単なる感謝の気持ちを超え、ほのかな恋心にも似た感情を抱き始めていた。
(増井さんは、なんて優しい人なんだろう。こんな人に、こんな仕打ちをするなんて…)
森本は、増井にクロスロード・テクノロジーの件を密告すべきかどうか悩んでいた。
(でも、もし、密告したら。増井さんのプロジェクトは…そして、私…)
葛藤する森本の様子を、鈴木彩音が不思議そうに見ていた。
「森本さん、何か、増井さんに相談したいことでもあるんですか?」
鈴木の言葉に、森本はハッとした。
「え、あ、そ、その…」
森本は、言葉を詰まらせながら、増井と鈴木を交互に見つめた。
「あの、実は…」
森本は、意を決して口を開こうとした。しかし、その瞬間。
「森本さん、何してるの? まだ、あの資料まとめ終わってないの?」
飯島の冷たい声が背後から聞こえた。森本は、恐怖で体が硬直する。
「し、失礼します!」
森本は、何も言えずに自分のデスクへと逃げるようにして戻っていった。
「どうしたんだ? 森本…」
増井は、森本の様子がおかしいことに気づいていた。しかし、その理由を知る由もなかった。
(何か、言いたいことでもあったんだろうか?)
増井の脳裏に、不吉な予感がよぎった。
その頃、飯島は満足そうに微笑みながら、人事部の奥にある、機密情報が保管されている部屋へと入っていくところだった。

(私は、勝つためには手段を選ばない。増井たちのスキャンダルをでっち上げて…)
飯島は、増井の弱みを握ろうと、社員情報データベースにアクセスした。彼の過去の評価、人事異動の履歴、家族構成…。
(これといって、妙な点は…)