
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
森本は、飯島の部屋から出た後、自席に戻ることなく人気のない非常階段へと足を向けた。冷たいコンクリートの壁に背を預け、深く息を吸い込む。心は、飯島から聞かされた衝撃的な事実と、増井に真実を伝えなければならないという使命感、そして飯島への恐怖が入り混じり、激しく揺れ動いていた。
(増井さんのお父様が、そんな目に遭っていたなんて…)
森本は、増井の父親の無念、そして今もなお苦しみ続ける母親の姿を想像し、胸が締め付けられるような思いがした。増井が、新規事業のテーマに「健康」を選んだ理由、そして、彼の仕事に対する真摯な姿勢の背景には、そんな辛い過去があったのだ。
(飯島さんは、それを利用して、どういう形でか増井さんを陥れようとしている。)
森本は、飯島の冷酷な策略に恐怖を覚えた。彼女は、目的のためには手段を選ばない女だ。もし自分が増井に真実を伝えれば、飯島の怒りを買い、自分だけでなく増井まで危険にさらされるかもしれない。
(でも、このまま黙っているわけにはいかない…)
森本は、増井の優しい笑顔を思い浮かべた。彼は、いつも困っている人を放っておけない、心の温かい人だ。森本自身が、飯島から無理難題を押し付けられた時、増井は何も言わずに助けてくれた。
(増井さんに、真実を伝えなくちゃ。)
森本は、決意を固めた。たとえどんな危険が待ち受けていようと、増井を守るために、そして彼の夢を実現させるために、真実を伝えなければならない。しかし森本は、飯島の監視の目を逃れて、どうやって増井と接触すれば良いのか分からなかった。彼女は、携帯電話を取り出し、増井の番号を呼び出そうとしたが、指が震えてボタンを押すことができなかった。
(どうすれば…)
森本は焦燥感に駆られ、非常階段の窓から遠くに見える夕焼け空を眺めた。そのオレンジ色の光は、まるで彼女の揺れる心を映し出す鏡のようだった。