
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
増井と有田は、重厚な木の扉の向こう側、社長室に通された。部屋の中は、古びてはいるものの磨き上げられた調度品が置かれ、かつての繁栄を偲ばせる風格が漂っていた。窓際の大きなデスクの向こう側には、白髪交じりの髪を丁寧に梳かし、背筋を伸ばして座る一人の老紳士の姿があった。北山製作所の社長、北山鉄雄。80歳を超えているというが、その眼差しは鋭さを保っていた。
「ようこそ、富士山電機工業の増井さん、と?」
北山社長は老眼鏡を掛け直し、名刺に目を落としながら二人に視線を向けた。
「有田です。」
有田が、少し緊張した面持ちで答えた。
「遠いところをわざわざご足労いただき、ありがとうございます。家内から話を伺いました。」
北山社長は、落ち着いた口調でそう言った。
「実は…」
増井は、社長室の重厚な雰囲気に呑まれそうになりながらも、深呼吸をしてから自らのプロジェクトについて説明し始めた。指の不自由な方々が再び自由に指を動かし、表現する喜びを取り戻せるような、そんな夢を実現するためのプロジェクト。そして、その夢を実現するために北山製作所の持つ微細加工技術が、どうしても必要であること。
増井は、自らの想いを込めて熱く語った。北山社長はじっと増井の言葉に耳を傾け、その表情は読み取ることができなかった。
「素晴らしいプロジェクトですね。」
長い沈黙の後、北山社長は静かにそう言った。
「しかし、うちの工場はもう昔のような力はありません。」
社長は、少し寂しげな表情で続けた。
「熟練の職人は、皆、引退してしまいました。若い者たちは根気がなく、すぐに辞めてしまう。この工場も私の代で終わりかもしれません。」
社長の言葉には、諦めにも似た深い悲しみが感じられた。
「それでも、構いません! どうか、私たちに力を貸してください!」
増井は、再び懇願するようにそう言った。
「北山製作所さんの技術が、指の不自由な多くの人に夢を与える力になるかもしれないんです!」
有田も、真剣な眼差しで社長に訴えた。
北山社長は、しばらくの間黙って二人の顔を見つめていた。
「君たちは、この工場がかつて、どんなに素晴らしい製品を作っていたか、知っているかね?」
社長は、唐突にそう尋ねた。
「え?」
増井と有田は、顔を見合わせた。
「この工場は、私の父が戦後間もない頃に焼け野原から立ち上げた工場だ。当時は何もなかった。材料も、機械も、人手も。それでも父は諦めなかった。日本の復興のために、世界に誇れるものづくりをしたい。その一心で、日夜働き続けた。」
社長の言葉には、力強い情熱が込められていた。
「そして父は、世界最高水準の微細加工技術をこの工場で生み出した。私たちの作った部品は、自動車、家電、航空機。あらゆる産業を支え、日本の高度経済成長を陰ながら支えてきたんだ。」
社長の言葉に、増井と有田は息を呑んだ。北山製作所の歴史は、日本の戦後復興を支えた基幹技術だったんだ。
「しかし、時代は変わりました。大量生産、低コスト化、デジタライゼーション。私たちの技術は、時代遅れのものとなってしまった。伸び盛りの職人たちは去り、今は細々と昔ながらの取引をこなすだけ。工場は静まり返っています。」
社長の声は、再び寂しげなものになった。
「何度も会社を閉じようと思いました。でも、私は、この工場を。父の誇りを。今日まで守り続けてきた。たとえ、誰からも見向きにされなくても。」
社長は、ぎゅっと拳を握りしめ、そう言った。
「増井さん、有田さん。君たちの話を聞いて、私は思った。もしかしたら、私たちの技術は、まだ、誰かの役に立てるかもしれない、と。」
社長は、二人に真剣な眼差しを向けた。
「多くの人たちの夢を、実現させる力になれるかもしれない、と。」
社長の言葉に、増井と有田は、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
「ありがとうございます! 北山社長!」
増井は、深々と頭を下げた。
「必ず、成功させます! そして、北山製作所の技術を、世界に、再び、知らしめます!」
有田も、力強くそう宣言した。
社長室の窓から午後の日差しが差し込み、床に置かれた古い工具箱を照らしていた。それはまるで、長年眠り続けていた誇りのかけらが再び輝きを取り戻そうとしているかのようだった。