
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
増井たちのチームが、北山製作所の協力を得て、新型アクチュエーターの量産化に目処を立てたというニュースは、瞬く間に社内に広がった。
「聞いたか? 有田と増井のチーム、あの北山製作所を復活させたらしいぞ。」
その噂は尾ひれがつき、一躍社内の花形プロジェクトかのように噂がかけめぐっていた。
「あの、忘れられた工場を? どういうことだ?」
「どうやら、北山製作所の持つ特殊な金属加工技術が、増井たちのプロジェクトに必要だったらしいんだ。増井は、AIを使ってその技術を現代に蘇らせたそうだ。」
「AIか。さすが、データ分析のプロだな。」
社内では、増井たちのチームの快挙を称賛する声が次々と上がっていた。
その頃川島は、富士山電機工業の重役たちが集う会議室で堂々とプレゼンを行っていた。グローバルコネクトとの業務提携は、彼の予想を上回る成功を収め、社内での彼の評価はうなぎ登りだった。
「以上が、グローバルコネクトとの業務提携による今後の事業展開プランです。この提携により、当社は次世代通信技術の分野において圧倒的な優位性を築くことができます。」

川島の自信に満ちたプレゼンに、重役たちは満足げに頷いた。
「素晴らしい! 川島君、君の功績は大きいぞ!」
「これで、次期役員レースでは鬼塚と並んだな」
「いや、追い越したかもしれんな」
重役たちは川島を称賛し、ライバルである鬼塚の名前を口にした。鬼塚は、長年、次期社長候補の筆頭と目されてきた人物だ。しかしここ最近、サーバーダウンを頻発させ問題の渦中にある情報セキュリティ部門が管掌範囲にあったため、ここ最近の経営会議での鬼塚は謝罪と再発防止策を語るばかりの印象がついていた。そんな鬼塚を横目に、今回の川島の活躍は明らかに前向きで目覚ましいものであり、印象論としてはその立場は逆転すら見えてきていた。
川島は、内心、ガッツポーズをしながらも、冷静な表情を保っていた。
(これで、俺の勝ちだ!)
彼はグローバルコネクトとの契約を成功させたことで、社内での地位を確固たるものにしつつあった。しかし、その成功の裏には大きなリスクが潜んでいた。黒崎との間で交わした特許技術の無償提供に関する密約だ。
(でも、あの件がバレたら…)
川島は、冷や汗が背筋を伝うのを感じた。彼はグローバルコネクトとの契約を急ぐあまり、本社の承認を得ずに密約を交わしてしまったのだ。
その日、グローバルコネクト日本代表の黒崎から一本の電話が入った。
「川島さん、例の件ですが、社内で少し問題になりそうなんです。」
黒崎の言葉に、川島は、血の気が引くのを感じた。
(ば、バレたのか!?)
「ど、どういうことですか?」
川島は、震える声で尋ねた。
「実は、うちの技術部の者が、川島さんが約束してくれた特許技術の提供について疑問視しているんです。軍事転用可能な技術でありながら、なぜ富士山電機工業はなんの条件も付帯せずに無償で提供したのか、と。」
黒崎の説明に、川島は、冷や汗が止まらなかった。
「そ、それは…」
川島は、言葉に詰まった。
「川島さん、何とかしてください。もし、この件が公になったら、両社にとって、大きな損害になります。どんな形でもいいので、富士山電機工業からの正式なレターとして、特許の無償提供の意図をわれわれに提出いただけませんか。」
黒崎は、冷淡な口調で、そう言った。
「わ、わかりました。何とかします。」

川島は、力なくそう答えた。彼の心は焦りでいっぱいだった。
(どうすれば、どうすればいいんだ?)
川島は、自らの成功が脆く崩れ落ちそうになる恐怖に怯えていた。
一方、増井は、量産化の目処が立ったことに安堵しながらも、森本への疑念を拭いきれずにいた。
(森本は、一体、何を考えているんだろう?)
増井は、森本が飯島から自らのプロジェクトを妨害するよう命じられていることを、まだ知らなかった。
その夜、増井は、母親の入居する「ひだまりの里」を訪れていた。
「お母さん、お元気ですか?」
増井は、ベッドに横たわる母親の手に触れながらそう呟いた。

彼の母親は認知症の症状が進行し、ほとんど会話をすることができなくなっていた。しかし、増井は母親が、自分の言葉を感じ取ってくれていると信じていた。
「お母さん、僕、頑張ってますよ。新しいプロジェクト、順調に進んでいます。きっとお母さんの病気にも役立つ技術になるはずです。」
増井は、母親にそう語りかけた。その瞬間、彼の背後に人影を感じた。
「増井さん。」
振り返ると、そこには森本が立っていた。彼女の目は赤く腫れ上がっていた。
「森本? どうしたんだ? なんで、ここに?」
増井は驚きを隠せない。森本は何も言わずに、ただ涙を流していた。
(森本、一体、何が…)
増井は、彼女の異変に不安を覚えた。
その頃、飯島は自らのオフィスで満足そうに微笑んでいた。
(増井、あなたの大切な人を奪ってあげるわ…)
飯島は、森本を利用して増井の心を壊そうとしていたのだ。彼女の冷酷なまでの策略は、静かに、しかし確実に、増井の人生を蝕み始めていた。