
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「ついに、完成した!」
荒川は、ディスプレイに表示された数値を食い入るように見つめ、興奮を抑えきれない様子で呟いた。
数週間におよぶ、睡眠時間を削り、食事もままならないほどの没頭。それでもなかなか成果が出なかったAIの精度が、ここ数日で劇的に向上したのだ。ギアーズが開発するスマートウォッチに搭載する生体信号解析AIは、ついに目標値を大きく上回った。
「これで、勝てる!」
荒川は、安堵と達成感から深く息を吐き出した。しかし、その表情にはどこか影が差していた。
彼は、この成功の裏に自らが犯した罪の意識を消し去ることができなかった。ブラックボックス・データから入手した倫理的に問題のあるデータを使ったことへの罪悪感。それは、成功の喜びを蝕む黒い影のように彼の心を覆っていた。
「荒川さん、すごい! ついに、目標達成ですね!」
「これで、二次審査も、楽勝ですね!」
ギアーズのメンバーたちは、荒川の成功を喜び興奮気味に彼を祝福した。吉川も他のメンバーと同様に心から喜んでいた。
「荒川さん、本当にすごいですね! 諦めずに、頑張ってきてよかったですね!」
吉川は、満面の笑みで荒川に声をかけた。彼女は、生体信号処理の専門家としてこのプロジェクトに参加していた。荒川の成功は、彼女にとっても大きな喜びだった。しかし、その喜びは長くは続かなかった。吉川は、AIの精度がなぜ突然向上したのか疑問を感じはじめていたのだ。
(本当にすごいけど、なぜ急に精度が高まったのかしら。あんなに苦労していたのに。一体、何が…?)
彼女は、荒川の開発の様子を思い返した。彼は、確かに寝る間も惜しんでAIの開発に取り組んでいた。しかし、使っているデータやアルゴリズムはこれまでと、ほとんど変わらなかったはずだ。
(もしかして、何か、私たちの知らない何かが隠されている?)
吉川の心に、小さな疑念が芽生えた。
数日後、吉川は荒川の様子がおかしいことに気づいた。彼は頻繁に誰かと電話で話している。しかもその声は、どこか焦っているように聞こえた。そして、荒川に注目しながら仕事をしていた吉川は、ある日、荒川が電話で話している内容を偶然聞いてしまった。

「佐久間さん、そんな、無理です! ブラックボックス・データとは、もうすでに話をつけたはずじゃないですか! もう少し、時間を…」
荒川は、電話口の相手に懇願するようにそう言った。相手の名前は、佐久間。吉川は、その名前を聞いて背筋が寒くなるのを感じた。
(佐久間!? あのブラックボックス・データの!?)
吉川は、ブラックボックス・データが、違法な手段で個人情報を入手しているという噂を知っていた。
(まさか、荒川さん、そんな…)
吉川は、恐る恐る荒川の電話の内容に耳を傾けた。
「わかっています。でも、あれ以上、要求に応えるのは、危険すぎます… 会社にバレたら…」
荒川の言葉に、吉川は衝撃を受けた。
(荒川さん、ブラックボックス・データから何か違法性のあるデータ提供をうけていたんじゃ…!)
吉川の疑念は、確信へと変わった。
彼女は、いてもたってもいられず、荒川がAIの開発に使っているデータについて、独自に調査を始めた。そして彼女は、社内のセキュリティレベルの高いエリアに膨大な量の何かのビッグデータが保管されていることを発見した。
(これが、荒川さんが使った、違法なデータ…?)
吉川は、そのデータの内容を確認しようとした。しかし、アクセス権限がなく開くことができなかった。
その夜、荒川は再び佐久間と電話で話していた。

「佐久間さん、本当に、もう限界です… これ以上要求に応じたら、私は…」
荒川は、追い詰められたようにそう言った。
「何だと!? お前は、俺に借りが…!」
佐久間の怒声が、電話口から聞こえてきた。
その瞬間、荒川は背後に人の気配を感じた。
「だ、誰だ!?」
振り返ると、そこには吉川が立っていた。彼女の目は、失望に満ちていた。
「荒川さん、あなた、一体何を…?」
吉川は、震える声でそう尋ねた。