
これは、スター社員でもなんでもない、普通のサラリーマンの身の上に起きた出来事。ひとりのビジネスパーソンの「人生を変えた」社内起業という奇跡の物語だ。
「吉川、ち、違うんだ、これは…」
荒川は、目の前に立つ吉川花子の怒りに満ちた視線に、言葉に詰まり、言い訳を探そうともがいた。しかし、言葉は空虚に響き、言い訳は喉に詰まったまま出てこない。吉川の瞳からは、大粒の涙が溢れ出ていた。荒川への失望、裏切られた悲しみ、そして、倫理観を踏みにじられた怒りが、彼女の心を激しく揺さぶっていた。
「違う…? 何が、どう説明するんですか…?」
吉川は、震える声でそう問いかけた。彼女は、荒川が何か言い訳をすることを期待していたのかもしれない。しかし、彼の口から出てくる言葉は、どれも空虚で真実から目を逸らそうとしているようにしか聞こえなかった。
「私は、信じていたんです。荒川さんのことを、このプロジェクトを。一緒に成功させたいと、心から思っていました。」
吉川の声は、悲痛なまでに震えていた。彼女は、荒川を尊敬していた。彼の技術力、リーダーシップ、そしてプロジェクトに対する情熱を。しかし、その尊敬は、今、深い失望へと変わっていた。

「吉川、すまない、本当に…」
荒川は、力なくそう呟いた。彼は、自らの行いが取り返しのつかない過ちであったことを、ようやく理解し始めていた。
「なぜ? なぜ、そんなことを…」
吉川は、荒川の目を見つめながらそう問いかけた。彼女は、彼の心の奥底を知りたがっていた。なぜ、彼はこんなにも愚かな選択をしてしまったのか。
「私はただ、このプロジェクトを、成功させたかったんだ…」
荒川は、目を伏せながらそう言った。彼の声は、小さく、そして弱々しかった。
「成功? そんな、人の命を危険にさらすような方法で…?」
吉川は、荒川の言葉に怒りをあらわにした。
「私は、もう、耐えられません」
吉川はそう言うと、荒川に背を向け会議室を出て行った。
荒川は一人、会議室に残された。そして、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
(俺は、一体、何を…?)
彼の頭の中は、混乱していた。成功への執念、焦り、そして恐怖。それらが彼を倫理的に間違った道へと導いてしまった。
しかし、今となっては、もう遅い。
(吉川、許してくれ…)
荒川は、心の中でそう呟いた。しかし、彼の言葉は誰にも届くことはなかった。
吉川は、会議室を出て、そのまま会社を後にした。
彼女の心は深く傷ついていた。
一方、増井は、本条と二人、黒田と飯島の陰謀について話し合っていた。
「黒田元専務。私の聞いた話では、あの事件の後、表舞台から姿を消したと思っていました。まさかこんな形で、再び現れるとは…」
本条は、驚きを隠せない様子でそう言った。
「ええ、しかも『ひだまりの里』の入居者のデータを違法に利用しているなんて…」
増井は、怒りを込めてそう言った。
「増井さん、落ち着いて。必ず、黒田と飯島の悪事を暴きましょう。」
本条は、増井の肩に手を置き、そう言った。
「ありがとうございます、本条さん。」
増井は、本条の言葉に少しだけ心が落ち着いた。
「まずは、黒田の会社『ヘルスケアデータ・イノベーション』について、詳しく調べる必要があります。」
本条はそう言うと、パソコンを操作し始めた。

「この会社は、設立されてからまだ数年しか経っていませんが、急成長を遂げているようです。黒田はあの事件の後、政界や財界に築いていた人脈を駆使して、この会社を大きくしたのでしょう。」
本条の説明に、増井は改めて黒田の恐ろしさを実感した。
「そして、この会社の傘下にあるのが『ライフデータ・ソリューションズ』という会社です。ここは、ヘルスケアデータのプラットフォームを開発している会社で、黒田はこの会社を通じて『ひだまりの里』の入居者のデータを、違法に取得しているようです。」
本条はそう言うと、増井にある資料を見せた。それは、ライフデータ・ソリューションズの会社概要だった。

「この会社の社長は、松永…?」
増井は、資料に記載されている社長の名前を見て、驚いた。
「松永? どこかで、聞いたことがあるような…」
「増井さん、ご存知なんじゃありませんか? 私が調べたところ、松永は、かつて富士山電機工業で増井さんのお父様の部下だった…」
本条の言葉に、増井は息を呑んだ。
(まさか、あの、松永が…?)
増井の脳裏に、ある男の顔が浮かんだ。それは、かつて父親を裏切った男の顔だった。